
アインシュタインの助手!?BASIC開発者ジョン・ジョージ・ケメニー
2022.12.16
優しいプログラミング言語「BASIC」


プログラミングの小学校出前授業でした~!パチパチ

これからもプログラミングの練習に励むんじゃぞ!


コンピュータを理解するには、プログラミングを覚えるのが一番じゃな


BASICと言う、学生たちにもっとコンピュータに接して欲しいと思った教師の愛から生まれたプログラミング言語などもあるぞ!


今回は、ケメニーの視点で見ていこうかの~!
ハンガリーからアメリカへ
ジョン・ジョージ・ケメニーは1926年、ハンガリーのブダペストのユダヤ人の一家に生まれました。
1938年ヒットラーが政権を握るナチスドイツは、ハンガリーにも手を伸ばそうとしていました。
ケメニーの父親は危険を察知し、一足先に渡米し、1940年ケメニーと他の家族も渡米をし、難を逃れたのでした。
アメリカに着いた後、ケメニーは英語をほとんど知らないままジョージワシントン高校に通いました。
それでも元々の頭の良さからトップで高校を卒業後、プリンストン大学に進み、平穏な日々を送っていました。
しかし第2次世界大戦は終わらず、1年後ケメニーは大学を休学し、ロスアラモス国立研究所でマンハッタン計画に参加して、軍に協力しなくてはいけなくなりました。
マンハッタン計画
マンハッタン計画では、コンピュータがまだ実用化されず、ミサイル弾道について計算処理する人を多く必要とし、ケメニーのような優秀な大学生が集められました。
ケメニーはIBMの計算機を使い、1日8時間、週6日働きました。
ケメニーの仕事は計算した結果をパンチカードに出力し、プラグボードの再配線もして、印刷された計算結果をチェックする仕事でした。
ジョン・フォン・ノイマンとの出会い
ロスアラモス国立研究所で、ケメニーと同じハンガリーブダペスト出身のジョン・フォン・ノイマンの講義を受けました。
ノイマンはコンピュータについていろいろと教え、自分が考案しているプログラムとデータを一つのメモリーに入れた2進法コンピュータについて語りました。
ケメニーはそんなことはいつになったら実現するのだろうかと考えましたが、ノイマンの考えるコンピュータは、1951年に「EDVAC」や「IASマシン」で実現するのでした。
アインシュタインの助手
1946年プリストン大学に戻ったケメニーは、学士号を取得して翌年卒業し、博士号取得のためそのまま大学院に進みます。
博士号のための研究をしながら、アルベルト・アインシュタインの助手を務めました。
アインシュタインは物理学の研究のため、複雑な計算する必要があり、数学に優れたケメニーが助手をすることになったのでした。
ノイマンはアインシュタインと同じ研究所に在籍していて、2人が話し合うことも時々ありました。
ケメニーはアインシュタインの優しい人柄に触れながら助手の仕事を2年間続け、その間に自身の研究もし、1949年論理学の博士号を取得しました。

しかし、複雑な計算となると計算間違いも増えてきて、それで数学に優れたケメニーが助手になったのだ



学生たちのために作った「BASIC」
プリストン大学で博士号を取得したケメニーは、そのまま残って、数学と哲学を学生たちに教え、1953年ダートマス大学に移り、数学を教えました。
同僚には、BASICをいっしょに開発することになるトーマス・カーツがいました。
カーツはプリストン大学で統計学の博士号を取得していて、コンピュータについての知識もありました。
ダートマス大学にはコンピュータはまだありませんでした。
そこでケメニーはわざわざマサチューセッツ工科大学に行き、コンピュータを使用する日々を送っていました。
その距離はなんと135マイル、約217km。
コンピュータを使用しているうちに、ケメニーはコンピュータが一部の専門の研究者しか使えない環境に不満が湧いてきました。
1957年、ジョン・バッカスが開発した「Fortran」を見たケメニーは、人間が機械語を覚えるのではなく、機械が言葉を覚えればいいのだと気が付きました。
ケメニーは学生たちにもコンピュータに触れて欲しいと思い、ダートマス大学に使用可能な最小限のコンピュータ「LGP-30」を購入しました。
コンピュータを使い始めた学生から創造性を広げ、新しい工夫を試みる学生たちが出てきました。
このことから大学側は、学生たちが大学の図書館を利用するように、コンピュータも普通に使えるようになることが必要だと考え、コンピュータの環境を整えることにしました。
ケメニーはカーツとともに、一つのコンピュータで多くの学生が使用できるタイムシェアリングのシステムの開発に取り組み始めました。
ダートマスタイムシェアリング(DTSS)
ケメニー、カーツ、それにケメニーキッズ(学生メンバー)が加わり、開発されたタイムシェアリングは「DTSS」と名付けられ、GE235コンピュータに実装し、1964年に稼働しました。
「DTSS」はソフトウェア開発環境が整った世界初の統合開発環境(IDE)でした。
端末はテレタイプを使用し、多くの学生が使用できるように配慮しました。
「DTSS」は他の学校や研究機関に接続され、メールやチャットができるようになりました。
ケメニーたちは「DTSS」の開発と同時に、専門家でなくてもプログラミングを習得しやすいプログラミング言語の開発にも取り組みます。
ダートマスBASIC登場
ケメニーたちが考えるプログラミング言語は、学生たちが理解しやすく使いやすい言語です。
そこで思いついたのは数学の代数。
これなら学生たちにはなじみやすく、これに簡単な英語を使用すれば、覚えやすい言語になるだろうと考えました。
こうしてできたプログラミング言語は、「ダートマスBASIC」と名付けられ、1964年5月「DTSS」でプログラムを実行することに成功しました。
「ダートマスBASIC」は「Fortran」の構文を参考にし、プログラミング言語を解釈しながら実行処理するインタプリタ方式にし、コマンド名はわかりやすさを優先しました。
- NEW:新しいプログラムを作成する
- OLD:保存していたプログラムを表示する
- SAVE:プログラムを保存する
- LIST:現在のプログラムを表示する
- RUN:現在のプログラムを実行する
- IF/THEN:条件判断
- LET/=:式の値を変数に代入する
演算や平方根、絶対値などの関数を扱い、286個の変数が使えます。
「ダートマスBASIC」は改良を続けて、DTSSとともに多くの学生が使用し、コンピュータに親しんでいきます。
1970年代には約300台の端末が稼働した大規模なタイムシェアリングに成長を遂げます。
この成功は話題となり、国の機関や教育機関も積極的にタイムシェアリングを取り入れるようになるのでした。



タイムシェアリングなら、CPUの処理時間を区切って各ユーザーに配分して、1台のパソコンをみんなで使えるからな

ケメニーの大学改革
1970年、ケメニーはダートマス大学の理事長に就任します。
理事長になったケメニーは画期的な改革に取り組みました。
- 男女共学化
- 少数民族(ネイティブアメリカン)の積極的受け入れ
- コンピュータリテラシーの推進
理事長の職を降りるまでの12年間、学生たちの教育環境の向上に勤めました。
理事長就任中には、スリーマイル島の原発事故に関する事故調査委員会の委員長にも選ばれました。
広がる「BASIC」
1982年、ダートマス大学の理事長職を辞任した後も、一教育者として教鞭をとり続けました。
その一方、カーツとともに「True BASIC, Inc.」を創業し、「ダートマスBASIC」を進化させた「True BASIC」を開発します。
「ダートマスBASIC」はこんがらがったスパゲッティのようだと批判する人たちがいる一方、無料で使えるため、「ダートマスBASIC」を参考にして開発された亜流の「BASIC」が出回るようになっていたのでした。
- 1970年:シマンテック「BASIC-C」
- 1975年:Microsoft「Altair BASIC」
- 1976年:Compiler Systems「CBASIC」
これには、ANSI(米国国家規格協会)も「BASIC」の標準化が必要だと、スタンダードBASICの作成に取り組みますが、時は既に遅く、広がり続けるBASICの標準にする基準を定められず、挫折してしまいます。
それでもケメニーたちは自分たちが作り出した「BASIC」をきちんとまとめて標準の「BASIC」にしたかったのです。
「True BASIC」は、ハードウェアに影響されないようにし、MS-DOS、Microsoft Windows、Classic Mac OSなどに対応しました。
その後「BASIC」は、パーソナルコンピュータが広まるとともに、使用する人が増え、自作のプログラムを雑誌などで公開するようにもなり、ブームを巻き起こしました。
しかし、表計算やデータベースなどのパッケージソフトウェアが出てくるようになり、プログラマーは汎用性が高いC言語の使用が増え、「BASIC」の愛用者は少なくなりました。
ただし、現在では「Visual Basic」などが名前を残しています。



広がったのは良かったが、ケメニーはどこまで納得したのんじゃろうな…
コンピュータ教育の未来
ケメニーはコンピュータについて
コンピューターだけでは社会の問題を解決できないが、これらの問題は複雑すぎて、高度に洗練されたコンピューターの使用なしでは解決できない。
また、コンピュータと教育の関係について
コンピューター教育を受けた世代を育てることができた場合にのみ、社会は深刻な問題を解決するために現代のコンピューターを完全に利用できるようになります。
と語り、次世代のコンピュータ教育の必要性を訴えています。
1992年、ダートマス大学に近いエトナでケメニーは息を引き取りました。


もう一度小学生に戻ってプログラミングを勉強したいです


タイムリープマシンあればな…

今からコツコツ頑張りなさい!

BASIC みたいに、自分に使いやすいプログラム言語作ればいいんだ💡



書いた人はこんな人

- 「好きを仕事にするエンジニア集団」の(株)ライトコードです!
ライトコードは、福岡、東京、大阪の3拠点で事業展開するIT企業です。
現在は、国内を代表する大手IT企業を取引先にもち、ITシステムの受託事業が中心。
いずれも直取引で、月間PV数1億を超えるWebサービスのシステム開発・運営、インフラの構築・運用に携わっています。
システム開発依頼・お見積もり大歓迎!
また、現在「WEBエンジニア」「モバイルエンジニア」「営業」「WEBデザイナー」「WEBディレクター」を積極採用中です!
インターンや新卒採用も行っております。
以下よりご応募をお待ちしております!
https://rightcode.co.jp/recruit
ITエンタメ10月 13, 2023Netflixの成功はレコメンドエンジン?
ライトコードの日常8月 30, 2023退職者の最終出社日に密着してみた!
ITエンタメ8月 3, 2023世界初の量産型ポータブルコンピュータを開発したのに倒産!?アダム・オズボーン
ITエンタメ7月 14, 2023【クリス・ワンストラス】GitHubが出来るまでとソフトウェアの未来