
岡崎文次 日本初のコンピュータを作った男
2021.12.20
目次
日本で最初のコンピュータを作った人物とは?




世界初の汎用コンピュータ【ENIAC】の完成
出典:wikipedia
第二次世界大戦終戦後間もないころの 1946 年(昭和 21 年)2月 18 日、「ニューズウィーク」に、ある記事が掲載されました。
モークリートエッカート、世界初の汎用コンピュータ「ENIAC」を完成させる
厳密に世界初を決めるのはなかなか難しいのですが、彼らの「ENIAC」が、最初期のコンピュータの 1 台であるのは間違いありません。
巨大な機械「ENIAC」
「ENIAC」は、ともかく巨大な機械でした。
総重量 30 トン、140 平方メートルの部屋を独り占めするほどです。
人類が、これほど複雑な機械を作ったのは初めてだ、と言われるほど、多くの部品からできていました。
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日本のコンピュータ開発計画
この記事に触発されたのか、日本でもコンピュータ開発の機運が高まります。
大学系の動き
大学系では、大阪大学の城研究室が手を挙げました。
また、東京大学と東芝の TAC プロジェクトは、当時としては巨額の、1011 万円と言う予算を獲得した国家事業でした。
その開発顧問には、当時有数の学者たちが顔を並べています。
大学以外の動き
大学以外では、逓信省電気通信研究所(後の NTT 研究所)のパラメトロンコンピュータ、商工省工業技術庁電気試験所のリレー式などの計画も続きます。


日本初のコンピュータ開発者
そんな状況の中、日本初のコンピュータ開発者の栄誉を手にしたのは、一般企業で働く一人の技術者でした。
それは、富士写真フイルム(現富士フイルム)に勤める、「岡崎文次」という人物でした。
日本にも居た機械式計算機ウンザリ組
初期の頃、海外でコンピュータ開発に携わった人たちは、「機械式計算機の能率の悪さにウンザリ」していたことが、取り組みを始めた動機だったようです。
岡崎氏もその例に漏れず、当初はコンピュータは電気仕掛けのソロバンぐらいに考えていました。
これって、明治の発明家である矢頭良一さんの「自動算盤」と通じるところがありますね。
コンピュータ開発に取り組んだきっかけ
1949 年当時、岡崎氏は、カメラレンズの設計を担当していました。
当時のカメラレンズの設計には、複雑な三角関数の計算など、数十人がかりで数表と取り組まねばならない作業が、大量に要求されたそうです。
海外の開発者たちは、こんな時に、電子式の計算機を自力で開発することを思いつくのでしょう。
しかし、すでに岡崎氏には、海外で作られていたコンピュータの知識がありました。
あれは使える
岡崎氏は、カメラレンズの設計で必要になる複雑な計算に、海外で作られていたコンピュータを使うことが有効だと考えました。
「あれは使える!」と思ったようです。
しかし、海外でも当時はコンピュータは、大学などが計算用に自前で作った程度で、商品として売り出されているものはありません。
ましてや日本には、輸入品さえ 1 台も無い状況です。
欲しけりゃ作れ
そのような状況で、岡崎氏は「自分でコンピュータを作る」ことを決意します。
岡崎氏は、決して日本初を目指したのではありませんでした。
「欲しければ作るしかない」といった状況でした。
必要に駆られて、日本初のコンピュータは誕生したのです。


そうとう遅れていた日本のコンピュータ開発
戦争の影響もあったのでしょうか。
終戦直後の日本の「電子技術の研究開発環境」は、欧米に比べかなり貧弱なものでした。
アナログ回路の電子技術は、やがて日本が追いつき追い越し始めます。
それに比べ、デジタル回路の研究での、日本の技術の遅れは顕著でした。
岡崎氏を取り巻く環境
そんな中、岡崎氏の開発を手伝っていたのは、機械式計算機を扱っていた女性ただ一人でした。
社内から注目されることもありませんでしたが、これが逆に良かったようです。
成果を出さねば、と焦る事もなく、「オレが決めてオレがやれば良い」状態。
また、参考文献が少なかったことも、結果的には良い方向に働きます。
海外の論文や雑誌記事を参考にされたようですが、絶対量が少なく、あれこれと読み比べる余分な時間がかからなかったためです。


FUJICの仕様
岡崎氏が独自開発したマシンは、「FUJIC」と名付けられました。
仕様・特徴
「FUJIC」の主な仕様・特徴は次のとおりです。
- 加減乗除・移動・飛び越し・入力・出力・停止など17種類
- 乗算命令の種類を増やし、ステップ数が減るように工夫
- 3アドレス方式の機械語で、16進数でコーディング
- ブラウン管での文字表示
- カード入力の際のコマンドは3種類
- タイプライターのキーを、下から針金で引っ張って文字を印刷(からくり人形的な手法)
参考にしたマシンは?
岡崎氏は、「FUJIC」の製作時に参考にしたマシンは、特に無いと語っています。
当然、「ENIAC」と同じ時代のコンピュータですから、「ENIAC」同じような構造の部分はあります。
しかし、岡崎氏が独自に工夫した点も、多く見受けられます。


FUJICの構造
「ENIAC」は、1万7468本と言う膨大な数の真空管を使い、消費電力は200kwと相当なものでした。
それだけでなく、当時の真空管の寿命は短く、頻繁に切れました。
そのたびにマシンを止め交換、保守点検、と無駄な時間がかかりました。
予算も時間も限られていた岡崎氏は、真空管はなるべく少なくしようと考えたようです。
その結果、「FUJIC」は1700 本程度の真空管で完成しました。
それでも、1 日に 2 ~ 3 本は真空管が切れて交換したようです。
ストアドプログラムとして動作
「ENIAC」は、パッチボードでプログラムされました。
一方、「FUJIC」はストアドプログラムで動きました。
ストアドプログラム方式は、「主記憶に置かれたプログラムを実行する」という、コンピュータ・アーキテクチャの方式の一つ。
入力はカードリーダー、出力は電動タイプライターです。
操作はカードを読み取らせ、ボタンを押したりするだけなので、誰でも扱えます。
この基本的メカニズムは、70 年代の汎用機とほとんど変わりがないほど、先進的な動作方式でした。
安定した性能のフリップフロップ
フリップフロップとは、コンピュータの論理回路をつくる上で最も基本となる回路です。
現在では買って来れば良いのですが、一から作るとなると話が違います。
岡崎氏はフリップフロップについて、次のように語っています。
まず、ソロバンの珠に当たるフリップフロップを造る。
後は、その珠を弾く論理回路を作ってやれば OK
しかし、当時の技術では、言うほど簡単な作業ではありません。
安定した性能で動作するフリップフロップの開発には、少し手こずったようです。
動作が見える論理回路
次は、論理回路です。
岡崎氏は、まず真空管を組み合わせて、2 進 4 桁の加減乗除を計算できる機械を試作しました。
試作機には、被演算用に 2 個と結果用に 1 個の、計 3 個のレジスタを用意しました。
それぞれのレジスタは、4 個のフリップフロップから成っており、制御用にも数個のフリップフロップを使われています。
全てのフリップフロップの表示ランプを一ヶ所に集め、全体の動作が一目でわかるようにしたのは、岡崎氏の工夫でした。
これは、会社のお偉方や、見学者へのアピールに、とても役立ちました。
水銀使用のディレーライン
さて、メモリはどうするか?
真空管は信頼度が低く使用が躊躇われるため、水銀を使った超音波ディレーラインが採用されました。
音は水銀の中を、高速で進みます。
100 万分の 1 秒の間に、何度か音を発したり止めたりすると、音の有無で、水銀の中にパターンが描けると言うのです。
その音の有無を、2 進数の「0」と「1」に対応させる音波が、水銀タンクの端に到着すると、同じ音波を送り出します。
同じパターンが再度描かれるので、繰り返しによりパターンは、描き続けられます。
つまり、「データの保持」です。
容量は 1 語 33 bit 扱いで、255語でした。


FUJICが完成するも注目度は低い
国立科学博物館に展示されたFUJIC
出典:wikipedia
FUJICの完成
1952 年(昭和 27 年)12 月、「FUJIC」は組み立て作業に入ります。
半期予算として 200 万円を獲得し、修理部門の数名が手を貸してくれました。
そして 1956 年 3 月、研究着手から 7 年がかりで、「FUJIC」は遂に完成しました。
社内の反応
完成したものの、社内での注目度はイマイチでした。
「FUJIC」の完成により、カメラレンズの設計速度は、1千から 2千倍ぐらい向上しました。
労働組合は、計算担当者の仕事が減ることによる「担当者の首切り」を心配するほどでした。
効率化の目標を達成したにも関わらず、注目されなかったのは、計算を必要とする部署が、余り多くなかったためのようです。
社外の反応
社外からも、使わせてほしい、との問い合わせが数件あった程度だったようです。
やはり、用途が限られていたためでしょうね。


FUJICのその後
7 年がかりで完成した「FUJIC」ですが、富士写真フィルムで働いたのは、わずか2年半でした。
マシンが消耗したわけでもなく、高性能の新しいマシンが導入されたのでもありません。
会社の方針が変わり、レンズの設計をやらなくなったためです。
日本初のコンピュータ「FUJIC」の働き場所は、無くなりました。
脚光は浴びないが
その後は、早稲田大学に寄贈され、現在は上野の国立科学博物館に保存されています。
「FUJIC」は、国家プロジェクトでもなく、一人の企業エンジニアがひっそりと作ったマシンでした。
現在、コンピュータの歴史を語るときでも、「FUJIC」が脚光を浴びることはあまりありません。
しかし、日本で最初の実用に耐え得るコンピュータでした。
「独自の設計」で作り上げられた、日本最初のコンピュータを、一度は見てみたいものですね!
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書いた人はこんな人

- 「好きなことを仕事にするエンジニア集団」の(株)ライトコードです!
ライトコードは、福岡、東京、大阪の3拠点で事業展開するIT企業です。
現在は、国内を代表する大手IT企業を取引先にもち、ITシステムの受託事業が中心。
いずれも直取引で、月間PV数1億を超えるWebサービスのシステム開発・運営、インフラの構築・運用に携わっています。
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