
【孫正義】日本一の実業家はどうやって生まれたのか?
2021.12.20
目次
日本一の富豪って誰?





孫正義ってどんな人?
出典:Wikipedia
「孫正義」氏といえば、日本ソフトバンクの創業者であり、総資産が2兆円を超える日本一の大富豪です。
とてつもない金額ですね…
実はこの大成功の裏には、伝説として語り継がれる、数々のストーリーが隠されています。
また、彼自身の圧倒的な人間力も、大成功にはかかせない「鍵」。
今回は、日本の成功者の代表格「孫正義」が、どのように生まれたのか、その謎に迫っていきたいと思います!
孫正義の生い立ち

孫正義は、子供時代に「貧しかった時期」と「お金持ちだった時期」の両方を経験しています。
そうした特殊な環境で育ちながら、学生時代には、普通では考えられないストーリーを数々残してきました。
幼少期の極貧生活
孫正義は、1957年に佐賀県鳥栖市の集落で、安本家の次男として生まれました。
しかし、在日韓国人の3世として生まれた孫正義の家庭は、非常に貧しいものだったそうです。
そんな中、父の安本三憲は、密造酒や養豚、金貸しなどで生計を立てていました。
建てられた家の住所は「無番地」と呼ばれる、整備のされていない土地で、住む事さえグレーな場所。
ちなみに、安本という苗字は、日本で住むために使う「通名」。
孫正義も子供のころは「安本正義」と名乗っていました。
その後、父の三憲がパチンコ屋を始めたことで、一気に生活は豊かになりました。
そして、パチンコ店数十店舗を経営し、高級車は複数台も所有して、豪邸にも住めるまでになったこともあったそうです。


坂本龍馬に憧れた学生時代
福岡県の城南中学校に入学した孫正義は、司馬遼太郎の小説「竜馬がゆく」に出会います。
ひどく感銘を受けた孫正義は、その当時から高い志を持ち、「何事かを成したい」と考えるようになりました。
高校に入ったが中退しアメリカ行きを決意
中学を卒業後、久留米大学付属高等学校へ進学します。
しかし、研修旅行で行ったアメリカで刺激を受け、通っている高校を退学し、アメリカへ行く決意をします。
教師には退学を止められるものの、「自分には時間が無い」と言い、説得を振り切って1年生の9月で学校を去ったのです。
恩師である藤田田との出会い
その後、アメリカへ旅立つ準備をしていた孫正義は、「ユダヤの商法」という一冊の本に出会います。
この本は、アメリカから日本へマクドナルドを持ち込み、日本マクドナルドを創業した「藤田田」の著書でした。
ユダヤの商法を読んで、感銘を受けた孫正義は話を聞くべく、藤田田の元へ直接会いに行きます。
しかし、大企業の社長であった藤田に直接会うことは難しく、追い返されてしまいました。
それでも、諦めずに何度も会いに行ったことで、諦めた藤田が15分だけ社長室で会う機会を与えたのです。
コンピューターの時代
孫正義は、ユダヤの商法を読んだこと、そして自身がアメリカに留学へ行くことを告げ、「自分はアメリカで何を学ぶべきか」を問います。
すると藤田は、
「これからは、コンピューターの時代だね。オレがお前の年齢ならコンピューターを勉強する」
と、答えたのです。
これが後に、IT実業家の「孫正義」を生み出すキッカケとなったわけですね!
セラモンテハイスクールを3週間で卒業
アメリカへ渡った孫正義は、高校卒業資格が無いため、セラモンテハイスクールに通います。
しかし、いち早く大学へ進学したかった彼は、
教科書の内容は全て理解できているので卒業させてくれ
と、校長に直談判。
その結果、見事に3週間でハイスクールを卒業したのでした!
ホーリーネームズ大学を受験し合格
名門ホーリーネームズ大学の受験を決意した孫正義ですが、テストの問題文は、もちろんすべて英文。
アメリカに来たばかりの孫正義は、「不利だ」と考え、大学側に次のように申し出ます。
問題が分かれば全て解けるので、私に辞書の借し出しをしたうえで、テスト時間の延長をしてください。
この申し出は、当然許可されず、断られます。
それでも、孫正義は食い下がりませんでした。
それに折れた教官は、この申し出を上司に相談。
そして、上司から上司へと相談が回り、当時の州知事にまで直接抗議する事態になったのです。
ついに孫正義は、州知事と電話で直談判し、「辞書の貸し出し」と「試験時間の延長」の許可を得る事に成功!
受験には問題なく「合格」し、見事にホーリーネームズ大学への進学を決めたのでした。


伝説の実業家として歩みだす
- セラモンテハイスクールを3週間で卒業
- 大学の受験システムを変更させて入学
など、普通の学生では考えられない行動を起こしてきた孫正義。
そして、後に「伝説の実業家」と言われる彼は、大学生の時点で実業家としての頭角を現します。
人生50年計画を作成する
- 20代で名乗りを上げ
- 30代で軍資金を最低で1千億円貯め
- 40代でひと勝負し
- 50代で事業を完成させ
- 60代で事業を後継者に引き継ぐ
これは、19歳になった孫正義が、今後の50年間の人生を見据えて打ち立てた、成功のための「人生計画」です。
現在の孫正義を見てみると、この「人生計画」を、確実に実行しているのが分かりますね!
在学中に「自動翻訳機」を発明
「30代で1千億円貯める」という人生計画を達成するには、「学生時代もムダにはできない」と考えた孫正義。
そんな彼は、「毎日5分間は、発明に時間を使う」と決意します。
その結果、250以上のものアイディアが生まれ、「自動翻訳機」の案も生み出されたわけです。
しかし、彼だけでは、アイディアを製品として作り上げる力はありませんでした。
そこで孫正義は、物理やコンピューターに携わる専門家に、片っ端から電話をかけ「私に力を貸してほしい」と直談判します。
そうした努力が実り、3年生で編入したカルフォルニア大学在学中には、「音声機能付きの他言語翻訳機」を開発!
その後、SHARP で当時技術本部長を務めていた佐々木正に、開発した技術を売り込み、合計で1億円の出資を受ける契約を勝ち取ったのです。
インベーダーゲームの輸出をおこなう
出典:Wikipedia
SHARP との契約で得た報酬は、自動翻訳機の開発チームで分配。
孫正義は、その余った資金で、「ユニソンワールド」という企画会社を設立しました。
このユニソンワールドでは、あの有名な「インベーダーゲーム」を、アメリカへ輸出するビジネスを展開しています。
日本で爆発的にヒットしていたインベーダーゲームでしたが、1979年にもなると、その人気は沈静化。
そこに目を付けた孫正義は、アメリカでもブームが起きると予想し、日本で価格の落ちたインベーダーゲームを350台程入手するのです。
そして、アメリカで販売した事で、予想通りブームが起き、半年の間で1億円の利益を獲得しました。


帰国後に福岡で日本ソフトバンクを設立
日本に帰国後は、国内初のPCソフトウェアの卸売り会社、「日本ソフトバンク」を設立します。
そして、ソフトウェアの最大手である「ハドソン」と独占契約を結び、出版や広告業など事業を拡大していったのです。
日本電子工業展である大阪エレクトロニクスショーでは、当時無名ながらも、「Panasonic」や「SONY」と同程度のブースも開設。
このとき、資本金の8割にあたる、「800万円」を投じていました。
その結果、日本ソフトバンクは、一気にその名を全国へ知らしめたわけですね!
Yahoo!JAPAN設立
「Yahoo!」は、アメリカにあるインターネットの会社で、当時日本に設立したいと考える同業他社が多くいました。
しかし他社では、インターネットが普及し始めたばかりだったため、日本での設立は長期的な計画になっていたのです。
ところが、孫正義がとった行動はその逆。
なんと、Yahoo! に「3か月で日本に設立する」と、どこよりも早く設立することを宣言したのです。
その後、孫正義が契約を獲得したことは、言うまでもありません。


ネットバブル崩壊後通信業界へ

コンピューターからPC、そしてインターネット事業へと、順調に事業を拡大してきた孫正義。
そんな彼にも、ピンチが訪れます。
2000年代初頭、アメリカの IT バブルが崩壊したあおりを受けて、日本でもネットベンチャーやIT企業が、次々に倒産する事態となったのです。
もちろん、孫正義の会社も打撃を受けて、自社株は10分の1にまで低下。
しかし、彼はこのピンチにも屈せず、更に電話通信業へと事業を拡大していきます。
Yahoo!BBを設立
2001年には「Yahoo!BB」を設立し、業界最大手であるNTT よりも、早い回線を繋げようと考えます。
しかし、通信事業に立ち入るためには、NTT の通信基地に立ち入らなくてはいけません。
さらにNTT の対応が悪く、「事業の進行が困難である」と感じた孫正義は、総務省へ直談判へ。
そこで、
NTT の事業妨害を総務省が対応しないのであれば、ガソリンをもっていき火をつける
と言い放ったのです。
この一件により、NTT が独占していた回線を使う事ができるようになり、通信の自由化が加速したわけですね!
iPhoneの独占販売
出典:Wikipedia
2007年に孫正義は、Apple の創業者である、スティーブジョブズに出会います。
そして、音楽と携帯電話の機能をあわせ持った、「iPhone」の構想を聞いたのです。
もちろん、ここでも孫正義は、「自社で独占販売したい」と考えます。
しかし、同業他社もその考えは同じで、iPhone の独占販売を狙っていました。
独占販売のために会社デザインを一新
孫正義は、iPhone の独占契約を行うために、会社のデザインまでも変更してしまいました。
これは、全力でiPhone を迎え入れる準備をしていると、アピールするため。
なんと、Apple ショップとイメージが似るように、ソフトバンクショップの改装をおこなったのです。
その結果、「店舗」「イメージカラー」「ロゴ」までも、白と銀の二色で統一されていったわけですね!
その後は、もちろん独占販売の契約を獲得しています。
新30年ビジョン
2010年の株式総会で、孫正義は「新30年ビジョン」を発表しました。
その内容は、「ソフトバンクグループが次の30年も情報革命により人々を幸せにし、世界から最も必要とされるグループになるためのプレゼン」でした。
具体的には、次のような内容を語っています。
- 何のために頑張るかという「理念」
- 目標を達成するには、どう進むべきかという「ビジョン」
- どう歩いていくかという「戦略」
- テクノロジーの進歩
現在改めて見ると、ただ先読みしただけではなく、正しい情報源から読み取った、戦略的ビジョンということがわかりますね!


さいごに
その後も、学校の設立や、東日本大震災で100億円の寄付をおこなうなど、社会貢献にも余念がありません。
今では「60代」と、人生50年計画でいうと、「事業継承」の時期に入っています。
しかし、2019年のインタビューでは、自身の実績にはまだまだ満足していない様子。
彼の止まる事のない向上心がアイディアを広げ、さらに世界へ打って出る姿に期待するばかりですね!
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さいごの一言





書いた人はこんな人

- 「好きなことを仕事にするエンジニア集団」の(株)ライトコードです!
ライトコードは、福岡、東京、大阪の3拠点で事業展開するIT企業です。
現在は、国内を代表する大手IT企業を取引先にもち、ITシステムの受託事業が中心。
いずれも直取引で、月間PV数1億を超えるWebサービスのシステム開発・運営、インフラの構築・運用に携わっています。
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