伝説のハッカー同士の最上級バトル!
「ハッカー」のイメージは昔からずっと変わらないですね !
そうじゃないって、延々説明するハメに…
世界には、良いハッカーも沢山おるんじゃがな…
この二人は対照的で面白いぞ。
では、伝説のホワイトハッカー下村努とケビン・ミトニックの対決について解説しよう!
ハッカーとクラッカー
「ハッカー」とは,本来コンピュータやネットワークに精通した人のことを指す言葉です。
しかし、不正アクセスの事を「ハッキング」と呼ぶことが定着してしまい、「ハッカー」も悪い意味となってしまいました。
コンピュータで不正行為を働く人のことは本来、「クラッカー」と呼ぶべきですが、この使い分けができていません。
2013年、小学館の国語辞典『大辞泉』編集部が発表した「間違った意味で使われる言葉ランキング」の第1位は「ハッカー」でした。
近年では、良い行いをするハッカーを「ホワイトハッカー」と呼んで区別するケースが多くなっています。
では、伝説のホワイトハッカー「下村努」さんと全米史上最悪のクラッカーと呼ばれた「ケビン・ミトニック」の戦いを見てみましょう!
天才セキュリティエンジニア・下村努
下村努さんは1964年、愛知県名古屋市で生まれました。
幼少期からアメリカに在住し、生涯のほとんどをアメリカで過ごす日系アメリカ人です。
その経歴はまさにエリートそのもの。
ノーベル賞学者の父親に連れられ渡米
父親は2008年に発光生物についての研究でノーベル化学賞を受賞した生物学者、下村脩(おさむ)さん。
1歳の時に両親とともに渡米し、幼少期から天才ぶりを発揮します。
10歳で平均年齢15歳位の子供達から成るコンピュータ・クラブに参加し、12歳の頃には飛び級で高校に入学しました。
15歳の時には、プリンストン大学の天文学部で計算担当のアルバイトをしていたといいます。
天才物理学者のもとで学ぶ
1982年、17歳でカリフォルニア工科大学に入学し、高名な物理学者「リチャード・P・ファインマン」教授のもとで2年間学びました。
その後、19歳の時にロスアラモス国立研究所へ移り、6年間、ハッキング対策のプログラミングに従事。
そのかたわら、物理学の研究者として現場での教育も行っていました。
コンピュータセキュリティの専門家として知られていますが、本人によると、本業は物理学者だといいます。
じゃあ、最終学歴は中卒!?
しかし、そんな肩書どうでもいいくらい実力の持ち主じゃったんじゃ!
悪の天才ケビン・ミトニック
ケビン・ミトニックは1963年、ロサンゼルスで生まれました。
彼が3歳の時に両親が離婚し、ウェイトレスとして働く母の元で育ちます。
高校生の頃には学校でコンピュータが使えるようになり、これにのめり込みます。
特技は電話回線への侵入
高校時代には電話のタダ掛けができる「フリーキング」という技術にハマりました。
ここからコンピュータ・ネットワークへの侵入にも高い関心を示すようになったと言われています。
1982年、電話会社からコンピュータのマニュアルを盗み出した疑いで起訴。
88年には、DEC社から基本ソフトの機密情報を盗んだとして起訴・逮捕され、全米に名前が知れ渡ります。
クラッキング技術で行方をくらます
多くの罪状で有罪判決が下り、12カ月の懲役を終え出所したケビンは保護観察中に逃亡を図ります。
持ち前のクラッキング技術で、保護観察官の電話番号をブロックし、裁判官の銀行口座から金を引き出し、裁判所のデータベースからは、自分の情報を全て消去するなどやりたい放題。
警察は彼を追いますが、クローン化された携帯電話を使い、自分の居所をつかませません。
最も危険なクラッカーは、ネットの闇に潜み犯罪を繰り返しました。
「ソーシャル・エンジニアリング」の達人
ケビンは一体、どのようにして様々なネットワークに侵入していたのでしょう?
彼が得意としていた技術は「ソーシャル・エンジニアリング」と呼ばれるのです。
これはコネや欺瞞や人心操作を使ってパスワードなどを入手し、クラッキングを行う手口です。
ヘルプデスクに従業員を装って電話をかけ、言葉巧みにパスワードを聞き出したり、時には郵便局員を装ってマルウェア入りのPCパーツを届け、接続したPCをクラッキングしたりしていました。
また、オフィスから出るゴミも彼にとっては宝の山です。
シュレッダーにかけられた紙を根気よく復元し、情報を盗み出していました。
ケビンは「スティーブ・ジョブズのゴミも漁ったことがある」と言っています。
あ、疲れたのでお茶買ってきます!
言ってるそばから画面開きっぱなしのまま席から離れるでない!
ケビン・ミトニックは笑う
彼は米国国防総省のネットワークにも100回以上侵入し、国家安全保障局にも数回侵入したと言われています。
国の安全をも脅かしかねない危険なクラッカーとして、FBIは彼を追い続けました。
しかし、ネットワークの向こう側で追跡をあざ笑うケビンに近づくこともできず、FBIは下村さんに協力を依頼します。
ケビンは下村さんが務めていた「サンディエゴ・スーパーコンピュータ・センター」に攻撃を仕掛けたこともあり、いわば因縁の相手です。
このことを知ったケビンは、大胆にも下村さんの自宅のコンピュータに侵入します。
プログラムを盗み出したあげく、彼をあざ笑うボイスメッセージまで残しました。
最悪の挑戦状をたたきつけられた下村さんはケビン追跡に立ち上がります…!!
下村努、執念の追跡
それから2ヶ月。
プライドを傷つけられた下村さんは、研究そっちのけで追跡に没頭しました。
ケビンは下村さんから盗み出したプログラムをそのまま自分のコンピュータには移さず、WELLという掲示板のサーバー内に隠していました。
しかし、この不審な大容量データが管理者に見つかってしまいます。
データの持ち主として連絡をうけた下村さんは、WELLへの侵入者がケビン・ミトニックであることに気付き、接続状況の監視を始めました。
そして、ケビンがどこから接続しているのかさかのぼり、最終的にノースカロライナ州ローリーの電話会社の交換所までたどり着きます。
周波数探知アンテナをもって市内を回り、ケビンが使用している携帯モデムの発見に成功!
1995年2月15日未明、下村さんと共に張り込みを続けていたFBIは、ケビン・ミトニック逮捕に踏み切りました。
同日、ローリー市の裁判所で下村さんと初対面したケビンは「君の技術には脱帽した」と語ったそうです。
逮捕後のケビン
逮捕されたケビンは有罪判決を受け5年間服役します。
刑務所内では、コンピュータはおろか電話すらかけさえてもらえませんでした。
これはNORAD(北米防衛司令部)への侵入も疑っていた検察側が「彼は公衆電話から口笛を吹くだけで核戦争を起こせる」と主張していたことによる措置です。
2000年、ケビンは刑期を終え、出所します。
クラッキングからは足を洗い、セキュリティコンサルタントに転身しました。
悪の手口を知り尽くしていた彼は、その知識をセキュリティに生かすホワイトハッカーとして活躍し、FBIにも協力しているとのことです。
下村努はヒーローに
ケビン逮捕に尽力した下村さん。
彼の元には世界中のメディアから取材依頼が殺到しました。
『ニューズウィーク』誌は下村さんを「サイバースペースで最も影響力を持つ50人」のリストに挙げています。
そして、彼と仲の良かったニューヨーク・タイムズのジョン・マーコフ記者は、ケビン追跡に密着しました。
その様子はノンフィクション書籍『Takedown』にまとめられています。
この本を基にした映画『ザ・ハッカー』が制作され、2000年に公開されています。
ちなみに映画には下村さんご本人もカメオ出演していますので、要チェック!(笑)
それで電話から核ミサイルを発射する信号を送れるんじゃないかと疑われていたらしいな
ただ当時からその噂はあって、映画『ウォーゲーム』の元ネタになったんじゃよ
さいごに
ノーベル賞学者を父に持ち、エリートの道を歩んだ下村努さん。
不遇な家庭環境に育ち、悪の道へと入ったケビン・ミトニック。
ともに高い技術を持ちながら対照的な人生を歩んだ二人の対決は下村さんの勝利に終わりました。
ケビンは罪を償い更生しましたが、ちょっとした環境の違いで悪の道には落ちない運命もあったかもしれません。
クラッカーの多くは、軽い力試しと思って不正アクセスを始めてしまうケースが多いと言います。
高い技術を持つものは、善行にのみ使いましょう!
彼も10代の頃、不正アクセスで逮捕されたとかなんとか。
やっぱりセキュリティ関係の仕事についているんですか?
最近ではその腕を買われ、大手配信事業者から時給1万円で海賊版サイトの運営者を探す仕事を請け負ったと聞いたぞ
ホワイトハッカーって儲かるんですか???
じゃあ、私もスーパーハッカ―になって、悪者を捕まえてみせます!
「確認してください」って何のメールだろ?開けてみよ!