トーマス・J・ワトソン?
IBM創業者トーマス・J・ワトソン「クビだっ!」事件
【左:パターソン 右:ワトソン】
「クビだっ!!」
その日、ワトソンは、勤めていたNCR社の社長、パターソンからクビを言い渡されました。
しかし、この事が後に、コンピューター業界の雄「IBM社」の誕生に繋がるわけですが…
それは、もう少し後のお話。
冒頭でクビにされた「トーマス・J・ワトソン」は、IBMの実質的創業者。
そして、たたき上げの一流の実業家であり、生前は世界一の富豪としても知られ、その死に際しては「世界一偉大なセールスマン」と賞賛されたほどの人物です。
なぜ、そのような人物が務めていた会社をクビになってしまったのでしょうか?
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トーマス・J・ワトソンは、なぜクビに?
クビになった経緯を見ておきましょう。
彼がNCR(ナショナル・キャッシュ・レジスター)社に入社したのは、1896年11月、販売見習い員としてでした。
そして、その後、セールス部門で頭角を現したワトソンは、最高のセールス・マネージャーとなり、同社で3本の指に数えられるほどの実力者になります。
社長のジョン・パターソンは、その腕を高く評価し、「彼を除いてはNCR社の舵取りを任せられる者はいない」とまで言い切ります。
社内の評判も上々でまさに順風満帆。
ワトソンの未来は明るいものに見えていました。
しかし、ここに落とし穴があったのです・・・。
社長と対立
それは、社長であるパターソンの性格によるものでした。
このパターソンは、異常なほどの負けず嫌いであったのです。
嫉妬深いとも言えますが、部下のワトソンの社内での評判が高まるほど、自分がないがしろにされ見下されているように感じてしまったのです。
ワトソンを評価し信頼していた感情が、妬みと憎悪へ変わるのに時間はかかりませんでした。
いったん芽生えてしまった心の闇は、晴れることはありません。
1913年の暮れに開かれた販売会議の席上で、ついに2人は正面から衝突してしまいました。
そこから2週間後、パターソンは一方的に解雇を通告をします。
私は食うには困らない
しかし、ワトソンは、NCR社を首になったからと言って、食べるのに困るわけではありませんでした。
当時のNCR社の販売手法は、多少行き過ぎな面もありましたが、大きな成果を挙げていたのも事実だったからです。
NCR社のトップ・セールス・マネージャーとあれば、首になるのを待っていたかのように、様々な販売会社からのラブコールが止まりませんでした。
ワトソン、機械に興味津々
しかし、ワトソンは、以前から人口統計を扱う「機械」に興味を持っていました。
そして、その機械を製造しているタブレーティング・マシン社と、その創始者で機械の発明者でもあるハーマン・ホレリスにも興味を持っていたのです。
ワトソンがクビになった頃、タブレーティング・マシン社は、他の3つの会社と合弁してCTR(コンピューティング・タビュレーティング・レコーディング・コーポレーション )と社名を変えていました。
しかし、残念な事に、その経営状態は決して良いと言えるものではありませんでした。
会社は一日も早く、強力なリーダーシップと凄腕の経営手腕を持つ人物の登場を待っている状況だったのです。
IBM誕生
ホレリスのタビュレーティングマシンとソータ (1890) 引用:wikipedia
クビになったことで、CTR社へ転職したワトソン。
当時のCTR社は、従業員数1300人、年間売り上げ高900万ドル規模の会社でした。
CTR社に入社して、3ヶ月後の1914年5月、彼は事業部長の職に就きます。
そして早くも、翌年には、社長に就任しました。
その手腕を発揮して、会社は年ごとに収益を伸ばし、財政基盤は強固なものになっていきました。
1924年、ワトソンは、社名を「インターナショナル・ビジネス・マシンズ・コーポレーション」に変更しました。
IBM社の誕生です。
社名へ込めた想い
この新しい社名にはワトソンの思いが込められていました。
「インターナショナル」は世界企業への躍進を表し、「ビジネス・マシンズ」と複数形をとることで、多種多様な事務機械メーカーであることを表現しました。
稼ぎ手である研究者は、優れた環境の研究の場を与えられ、多くの新製品を生み出して行きました。
外交・国際関係に興味を示すも、ヒトラーとは反目
ワトソンは、企業経営だけでなく、国と国の関係にも関心を持っていました。
国際企業の社長ともなれば、どの国と、どの国が友好関係にあるか、敵対関係にあるかを知っておくのは当たり前でしょう。
しかし、ワトソンは、個人的にもう一歩踏み込んだところに興味も持っていたようです。
ルーズベルト大統領との親交も深く、ニューヨークでの非公式な大使として、海外からの政治家の接待も引き受けました。
国際商業会議所の代表に選ばれたワトソンは、1937年ベルリンで開かれた会合で基調演説を行いました。
この時、当時のドイツ首相 であったヒトラーと会見し、平和を強く訴え不戦の約束を取り付けます。
しかし、ヒトラーは当然のようにそんな約束など反古にして、第二次世界大戦が勃発しました。
ワトソンは、ヒトラーを強く非難し、会見の時与えられたメダルを叩き返します。
これは外国人に与えられるものとしては、2番目に名誉のある勲章でした。
それに怒ったヒトラーも対抗措置として、ワトソンのドイツ入国を禁止しました。
IBM社と戦争
同じころ、IBM社はアメリカの戦争に深く関与し、軍用に多数のデータ処理装置を生産しました。
また同盟各国の軍では、IBM社のタビュレーティングマシンが、会計処理や兵站業務などの戦争関連の目的で広く使われました。
しかし、ワトソンは、米軍向けの物資供給では1%以上の収益を上げないことを明言する「1% doctrine」という方針を打ち出しました。
また、軍に入隊した社員へは、給与の4分の1が支払われ、軍向けの収益は全額、戦死した社員の遺族への基金とされました。
ワトソンがなぜこのように、戦争に強い関心を持っていたのでしょうか?
理由の1つに、長男の「トーマス・J・ワトソン・ジュニア」がアメリカ陸軍航空隊に入隊したことがあります。
彼は、爆撃機のパイロットだったのです。
次の世代へバトンタッチ
【図 トーマス・J・ワトソン・ジュニア】
無事、空軍からIBMに戻った長男のトーマス。
ワトソンは、1949年9月にIBM社の名誉会長に就任し、トーマスを副社長に就任させました。
そのころ、アジアでは、朝鮮戦争が勃発。
トーマスは、それを「チャンス」と受け取り、軍向けのコンピュータ事業へ、巨額の投資をしようとしました。
しかし、ワトソンは、リスクを恐れ大反対しました。
しかし、血は争えません。
父親譲りで貫徹に向かって進む息子のトーマスは、父ワトソンの反対を無視し、独断でサインをしてしまいました。
ワトソンもさぞ、頭を抱えたことでしょう。
ですが、秘書を通じ「100%お前を信頼し評価する」とトーマスに伝えたという、親子愛を感じるエピソードが残っています。
ちなみに、その頃トーマスが設立した「IBMフェデラル・システム」が受注した、半自動式防空管制組織(SAGE)は、IBM社がコンピュータ業界支配の要因になったと言われています。
1956年5月8日、父親譲りの経営力を受け継いだトーマスにIBM社の経営権を渡しました。
そして、翌月、死期を知っていたかのように、82歳で死去しました。
ワトソンが亡くなった時、IBM社は、年間売り上げ高8億9700万ドル、総従業員数は72,500人に達する巨大国際企業に成長していました。
ワトソンが「IBM」という社名に込めた想いは、現実として形になり、今もこうして生き続けているのです。
さいごに
1960年代70年代、まだ企業や大学にも夏の冷房が行き渡っていなかった頃、大型電子計算機を導入した各所では、特別な部屋を造りそこに据え付けました。
人間が扇風機だけで暑さをしのいでいる頃、年中恒温・恒湿に保たれた居心地の良い部屋に鎮座していた電子計算機様。
そして、その部屋の名札には『電子計算機室』もしくは『IBM室』と書かれていたそうです。
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