発明家 矢頭良一、夢のために自動そろばんの研究!
【図:矢頭良一と発明品】
コンピュータの元を辿れば、計算機・計算道具が始まりでしょうか。
計算機械と呼べるシロモノではありませんが、欧米が「計算機械」を目指し始めたころ、日本は「計算道具」の時代でした。
飛行機を作りたいけど、お金がない
今回の主役である矢頭良一(やずりょういち)は、19世紀末から20世紀初頭にかけて活躍した発明家です。
彼は、明治11年(1878年)に福岡県に生まれました。
幼い時から空を飛ぶ鳥を眺めては、その不思議さ美しさに心を惹かれていました。
16歳の頃、いよいよ本格的に鳥の飛ぶ仕組みの解明を志します。
数学や工学・語学の必要性を感じて、通っていた豊津中学校を退学し、大阪へ出ます。
そして、語学を学ぶためにイギリス人の私塾へも通い、22歳で帰郷。
その後は、鳥の飛翔の研究に加えて、外国製の計算機を参考にし、歯車式計算機の研究開発に取り組むことにしました。
エンジンで飛翔する機械(飛行機)の研究に必要な資金を、計算機を売って得た金で賄おうと考えたのです。
森鴎外(もりおうがい)を訪ねる
【図:森鴎外】
明治34年(1901年)2月、良一は書きあげたばかりの論文『飛学原理』と歯車式計算機の模型を抱えて、雪の降りしきる中、福岡の小倉を目指しました。
当時、陸軍第12師団の軍医部長として小倉に赴任していた、森林太郎(森鴎外)を訪ねる為です。
森鴎外に面会した良一は「人間を乗せて飛ぶ機械を造り、人の役に立ちたい」との、自分の飛翔機械に対する考えを打ち明けます。
ついては、この計算機を売って、その売り上げから開発費を得ようと計画しているが、そのための助力を願いたいと頼み込みます。
初対面ではありましたが、森鴎外は青年の才気と熱心さに心を動かされ、以後の支援を約束します。
その日の様子を森鴎外は『小倉日記』の中に記しています。
この後、もう一度、良一と会ったようで、その日の日記には『飛行機』という言葉が書かれています。
夢のため上京
同年3月、森鴎外は小倉を発ち上京。
4月には、東京帝国大学に中村清二・田丸卓郎 両教授を訪ね「良一が上京したならばよろしく頼む」と仲介を務めました。
良一は10月に上京を果たし、東京帝大の研究室で飛行研究を行えるようになります。
これも森鴎外の要請のお蔭です。
パテント・ヤズ・アリスモメートルを発明・販売
図:矢頭良一の「自働算盤」、1903年の特許(日本国特許6010号)の第壹圖
明治35年(1902年)良一は『自動算盤』を発明し、翌年には専売特許を出願申請します。
この機器はのちに特許を取得して、『パテント・ヤズ・アリスモメートル』と呼ばれます。
これは日本最初の機械式卓上計算器で、一つの円筒と22個の歯車を組み合わせた全金属製のものです。
当時のそろばん、つまり上下2段に分けられ上段には2個の珠を、下段には5個の珠を配したものに倣って、2進法と5進法を併用したものでした。
機器内部での処理方式は十進法を採っていましたが、入力を2・5進法にしたのは、そろばんを使い慣れた当時の人の便宜を考えたものと思われます。
最大8桁までの四則演算が可能で、乗算・除算の桁送りが自動で行われる上に、計算終了時には機械動作も自動的に停止するなど、当時の外国製のものよりはるかに優れた機能を持っていました。
売り出したところバカ売れ
明治38年(1905年)1月、自動算盤の特許がおり、東京小石川の工場で製造。
この機器売り出しのために創った、神田の矢頭商会で販売を開始します。
当時の値段で250円、現代ですと600万円程度と高価なものでしたが、森鴎外が後押ししたこともあり結構な売れ行きでした。
陸軍省や内務省・農事試験場を始め民間の大企業も購入し、200台以上が売れました。
かの文豪、夏目漱石も購入したそうです。
漱石先生は何に使われたのでしょうね。
本当の目的、飛行機の発明は未完のまま世を去る
『自動算盤』が思った以上の売り上げを見せ、良一は念願の開発資金を手に入れました。
研究の方も、森鴎外の根回しのおかげで東京帝大の研究設備が使えるようになり、良一はこれを大いに励みとしました。
また当時は、日露戦争(1904年から05年)の影響で、飛行機の研究が軍事的にも注目されているなど、研究環境は整っていました。
明治政府の重鎮の井上馨(いのうえかおる)や、日産コンツェルンの総帥の鮎川義介らの支援も得て、明治40年(1907年)からは、小石川の工場でエンジンの試作・実験に専念できるようになります。
無念のまま…
しかし、これで研究に没頭できるようになると喜んだのも束の間、長年の過労がたたったのでしょうか。
以前に患った肋膜炎が再発し、翌明治41年(1908年)10月16日、享年31歳でこの世を去りました。
良一が発明した機械式卓上計算器『パテント・ヤズ・アリスモメートル』や、森鴎外から送られた直筆の書など、計47点の遺品は、2010年に良一の親族から森鴎外が軍医時代に住んでいた北九州市に 寄贈されました。
しかし、良一が雪の降る中を大切に抱えて行き、森鴎外に見せた『飛学原理』は行方不明のままです。
最後に
欧米諸国がすでにコンピュータへの道を歩み始めていた頃、日本は未だ自動計算機器の時代でした。
しかし、少壮の発明家たちは未来を見つめて己の信じる道を歩んでいました。
矢頭良一が長生きして飛行機の研究を続けていたら、私たちに何を見せてくれたでしょうか。