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  • 「真のインターネットの父」ARPANETの仕掛け人 J・C・R・リックライダー

    広告メディア事業部広告メディア事業部
    2022.12.08

    ITエンタメ

    真のインターネットの父はだれ?

    ミツオカミツオカ
    師匠、「インターネットの父」ってたくさんいません?
    にゃんこ師匠にゃんこ師匠
    うむ…、そうじゃな。
    インターネットの開発史では、TCP/IPを開発したロバート・カーンとヴィントン・サーフが真っ先にあげられるが、パケット通信の理論を確立したドナルド・デービス、それを実装して最初の通信を実現したクラインロックなんかも有名じゃ
    ミツオカミツオカ
    インターネットは一人の人が作ったわけじゃないのは分かってますが…
    にゃんこ師匠にゃんこ師匠
    そうじゃな。
    まあ、面白いところだと、ネットのない時代に現在のインターネットとほぼ同じものを予見して、成立に尽力した中心人物はおる
    ミツオカミツオカ
    えっ!?
    にゃんこ師匠にゃんこ師匠
    J・C・R・リックライダー」という傑人じゃ!
    しかも、リックライダーはエンジニアではなく心理学者だったんじゃ
    ミツオカミツオカ
    心理学者がインターネットを作ったということですか!?
    にゃんこ師匠にゃんこ師匠
    リリックライダーは未来を予見し、人材を集め、予算を取って配分し、やがてインターネットに結実する多くの種をまいたんじゃ
    今風に言えば「ビジョナリー(先見の明がある人)」といったところじゃな
    ミツオカミツオカ
    では今回は、リックライダーがどんな風にインターネットを作ったか見ていきましょう!

    コンピュータネットワークを構想した人物

    「コンピュータネットワーク」という概念自体がなかった時代のことを想像してみてください。

    その頃、コンピュータは単なる「計算機」でした。

    現在のようにコミュニケーションをとったり、動画を見たり、買い物をしたりすることはできません。

    今日のようなインターネットは多くの人が開発した様々な技術の蓄積の上に成り立っています。

    しかし、決して行き当たりばったりで出来上がったものではなく、最初から明確なイメージがありました。

    そのイメージを作り上げたのが、「J・C・R・リックライダー」です。

    彼はコンピュータの可能性に気づき、インターネットの前身となる「ARPANET」を作り上げました。

    それをどのように実現していったのか見ていきましょう!

    実験心理学者リックライダー

    J・C・R・リックライダーこと「ジョセフ・カール・ロブネット・リックライダー」は、1915年3月11日ミズーリ州セントルイスで生まれました。

    父親は貧しい農民の出でしたが、商売で成功し保険会社を経営しており、少年時代はそれなりに裕福に過ごしました。

    模型飛行機を買ってもらって夢中になったり、免許を取れる頃になると廃車を買ってもらい、それを自分で修理して乗り回していました。

    自動車いじりは彼の生涯の趣味となります。

    機械好きで将来の夢は科学者でした。

    高校を卒業するとミズーリ州のワシントン大学に進みます。

    しかし、2年生のときに父親の保険会社が倒産。

    1年間休学してアルバイトで学費を稼がなければならなくなりました。

    心理学への目覚め

    学費のため自動車修理工場やドライブインなど様々なところで働きました。

    アルバイトの一つに心理学科の実験用動物の世話というものがありました。

    ここで彼は心理学に興味を持ちます。

    1937年にワシントン大学の大学院心理学科に進み、翌年には修士課程を修了。

    修士論文は「猫の集団と睡眠について」というものでした。

    ロチェスター大学の博士課程に進み、1942年には心理学の博士号を取得。

    博士論文は「猫の聴覚皮質での周波数局在に関する電気的研究」というものでした。

    ミツオカミツオカ
    どんだけ猫好きなんですか!
    にゃんこ師匠にゃんこ師匠
    猫好きに悪い人はおらんな!キリッ
    まあ、バイトの時に実験動物の猫の世話をしておったから愛着がわいたんじゃろ
    ミツオカミツオカ
    まだ一つもインターネットに繋がりませんが…
    にゃんこ師匠にゃんこ師匠
    大学では心理学のほかにも数学科物理学科も卒業しておる。
    それらが結びついていくのはまだまだ先のことなんじゃ…!

    軍の研究に協力して頭角を現す

    博士課程の研究で彼は、聴覚皮質で活動するニューロンの地図をつくり、音の周波数を識別する領域を特定しました。

    この研究は彼の次の道へ続きます。

    1942年、第二次世界大戦中にハーバード大学の「音響心理学研究所」が新しい所員を募集していました。

    この研究所はアメリカ空軍が設立したものです。

    当時問題になっていたのは航空機の無線の聞き取りにくさです。

    飛行中の航空機の中では、エンジン音がうるさすぎて地上管制が何を言っているのか聞き取れません。

    リックライダーは自分の研究が役に立つと思い、研究所の募集に応募します。

    無線伝達の音質向上に成功

    ここで彼の「受容の理論と音声の理解度」の研究が役に立ちました。

    ハーバード大学の音響学博士レオ・ベラネクのもと、リックライダーは研究を開始します。

    彼は、実際に高度1万メートルを飛ぶ爆撃機に乗り込み、搭乗員の会話がどのような影響を受けるか体験しました。

    そこで発見したのは、爆撃機内で音声をうまく伝えるには子音を強調する「ピーク・クリッピング」の技術が有効であることです。

    早速、子音を強調する変換器が作られ、搭乗員の情報伝達は飛躍的に改善します。

    MITで防空システムの構築

    戦争も終わった1950年、リックライダーはマサチューセッツ工科大学(MIT)へ移ります。

    前年の1949年8月にはソ連が最初の核実験を行い、冷戦が本格化しようとしている時代です。

    国防総省は防空能力の強化のため、レーダー基地を高度な通信システムでつなぎ、情報をコンピュータで処理するというシステムを構想します。

    この防空システムの構築の依頼がMITに舞い込みます。

    リックライダーはかつての実績を買われ、このシステムを構築する委員に心理学者として参加するよう求められました。

    心理学者としてレーダーのインターフェースを改善

    レーダーは電波で感知した情報をディスプレイに映し出し、人間はその位置を認識してコンピュータに入力する必要があります。

    この機械と人間のインターフェースの設計をリックライダーは任されました。

    敵機を表す画面上の光点を捉えるのに、最初はジョイスティックを使っていましたが、リックライダーはライトペンを開発し、ボタンを押すだけで入力できるよう改良します。

    聴覚や音声も考慮し、出入力装置を洗練させていきました。

    防空システムは次第に構築されていき、1953年には48機の航空機の情報を同時にコンピュータで処理することに成功します。

    このプロジェクトは「リンカーン研究所」に発展し、研究は続けられていきました。

    ミツオカミツオカ
    無線機とかレーダーとか軍の研究にも心理学者は必要だったんですね
    にゃんこ師匠にゃんこ師匠
    リックライダーはもともと機械好きじゃったから、機械と人間の両方が分かる研究者として重宝されたんじゃろうな
    ミツオカミツオカ
    インターフェースの開発にはもってこいの人材ですね
    あと、コンピュータとかネットワークも少し出てきましたね
    にゃんこ師匠にゃんこ師匠
    このころはコンピュータの一番の使い道は軍事じゃったからな
    計算機科学の研究は軍主導のもとに行われておったんじゃ
    ミツオカミツオカ
    リックライダーさんはその最先端にいたんですね
    にゃんこ師匠にゃんこ師匠
    軍と関係が深かったことが、その後、インターネットに関わってくるのじゃ

    人間とコンピュータの共生

    MITでの研究のあと、リックライダーは「BBN(ボルト・ベラネク・アンド・ニューマン)社」に移籍します。

    BBN社はハーバードの音響心理学研究所の所長だったベラネクが作った音響コンサルタントの会社で、劇場の音響設計などを行っていました。

    リックライダーはここで画期的なコンピュータと出会います。

    DEC社のケン・オルセンが持ち込んだミニコンピュータ「PDP-1」です。

    これまで使っていた真空管式のコンピュータより1000倍高速のマシンにすっかりほれ込みました。

    早速、会社を説得してPDP-1を導入し、コンピュータの研究を開始します。

    ディスプレイ・システムを使って対話的にコンピュータを使うことに熱中しました。

    人間は思考時間を85%も無駄にしている

    このころ、リックライダーは研究所や企業で知的労働をしている人の時間の使い方に興味を持ちます。

    まだそういった行動解析の研究はされていなかったので、自分を実験台にして調べてみることにしました。

    自分の行動や思考を詳細に記録し分析してみました。

    その結果、彼の思考時間の85%は「考えたり、決定したり、学んだりすることではなく、その準備にとられている」ということが分かりました。

    考える以前に、必要な情報を見つけたり、獲得するのに大半の時間が使われていました。

    この効率の悪さを何とかするにはどうすればいいか。

    彼は「コンピュータ」がその解決手段になるのではないかと考えます。

    コンピュータネットワーク構想

    長年、軍の研究に携わった経験から、コンピュータは今のままでは戦争の役には立たないと感じていました。

    人間が問題を整理し、プログラムを組むのに2日かかり、コンピュータで数分で処理した結果が6mの紙テープで出力される。

    これではリアルタイムな判断を必要とされる戦場では役に立ちません。

    肝心の人間は思考する時間の85%を情報収集に取られてしまっています。

    高度な対話型のコンピュータと常にネットワークでつながっていれば、人間とコンピュータの双方の長所を統合することができるのではないか。

    コンピュータは高価ですが、多くのユーザーが時間単位で分けあえば経済的です。

    情報検索の機能を高め、図書館の機能を持った「シンキング・センター」を作り、通信回線で相互に接続する

    そして、ユーザーは有料の回線サービスでセンターを利用し、巨大なメモリと複雑なプログラムのコストを分かち合う。

    1960年、リックライダーは自分の考えを「人間とコンピュータの共生」という論文にまとめ、発表しました。

    ミツオカミツオカ
    すごい!
    ほとんど今のインターネットそのまんまじゃないですか
    にゃんこ師匠にゃんこ師匠
    このころのコンピュータはOSもソフトもろくにない、ただの計算機だった時代じゃ
    それなのにネット検索クラウド的な使い方をもう考えておったんじゃ
    ミツオカミツオカ
    でもまだ理論だけですよね?
    にゃんこ師匠にゃんこ師匠
    (ΦωΦ)フフフ…
    さあ、ここからリックライダーは自らの理論の実現に向け動き出すんじゃ!

    冷戦の激化とARPA設立

    リックライダーがBBNに移籍した1957年、ソ連が初めて人工衛星の打ち上げに成功し、世界に衝撃が走ります。

    いわゆる「スプートニクショック」です。

    ソ連に後れを取ることを恐れたアイゼンハワー大統領は最先端の科学技術研究を軍事利用する組織「高等研究計画局(ARPA、アーパ)」の設立を指示します。

    1961年、本格的に始動したARPAは、「気象予報」「諜報活動」「兵站」「通信」「戦闘シミュレーション」「訓練」などに情報処理技術を応用する研究に莫大な予算を付けます。

    コンピュータと通信技術の向上が急務となりました。

    そのプロジェクトを取りまとめ、先頭に立つ人物として白羽の矢が立ったのがリックライダーです。

    ARPAのIPTO局長に就任

    1962年、キューバ危機が迫る中、リックライダーはARPAの「IPTO(情報処理技術部)」の局長に任命されます。

    与えられた予算は年間1000万ドル

    現代の日本円にして100億円以上のお金を自由に差配する権限が与えられました。

    リックライダーはこれまでの人脈を生かし、優秀な人材に片っ端から声を掛けます。

    人工知能研究の最先端を行くマービン・ミンスキージョン・マッカーシーエド・フェイゲンバウム

    最高性能のコンピュータを持つMITや世界初のソフトウェア開発会社SDC(System Development Corporation)。

    リンカーン研究所でレーダー技術グループを率いていたロバート・ファノ

    「人間とコンピュータの共生」に感銘を受けたダグラス・エンゲルバードなども、リックライダーのもとに馳せ参じました。

    リックライダーは様々な研究者や研究機関に惜しげもなく予算をバラまきす。

    そして、まず構築すべきは「タイム・シェアリング・システム」です。

    タイム・シェアリング・システム

    当時のコンピュータは非常に高価で、個人が占有できるものではありませんでした。

    しかし、人間が入力するスピードとコンピュータが計算するスピードでは圧倒的に後者のほうが速いのは明白です。

    ということは入力待ちの間、コンピュータは時間を無駄にしていることになります。

    ならば、1台のコンピュータに複数の人間が同時接続して、CPUの「時間」を分割して利用しようと考えだされたのが「タイム・シェアリング・システム(TSS)」です。

    TSS開発の中心となったのはMITのロバート・ファノ率いる「Project MAC」で、リックライダーはここに多額の予算をつけました。

    ミツオカミツオカ
    「タイム・シェアリング・システム」のためにネットワークが必要とされたわけですか?
    にゃんこ師匠にゃんこ師匠
    グロッシュの法則」というのがあってのう
    コンピュータの性能は価格の2乗に比例する」というものじゃ
    ミツオカミツオカ
    つまり?
    にゃんこ師匠にゃんこ師匠
    1000万円と5000万円コンピュータがあれば、価格差は5倍じゃが、性能差は5の2乗で25倍あるということじゃ
    つまり、1000万円のやつを5台買うより、5000万円のを25人でシェアしたほうが効率的ということじゃ
    ミツオカミツオカ
    なるほど
    にゃんこ師匠にゃんこ師匠
    後にパソコンの量産効果が発揮されるようになるまで、「タイム・シェアリング・システム」は重要な技術だったんじゃ

    ARPANETの誕生

    1963年、リックライダーは「銀河間コンピュータ・ネットワーク(Intergalactic Computer Network)の関係者各位へ」という文で始まるメモを各プロジェクトのメンバーたちに送りました。

    銀河系全体にまでネットワークを広げようという、彼らしい大風呂敷でしたが、そのメモには作るべきネットワークの具体像が示されていました。

    研究コミュニティのコンピュータを接続し、データやプログラムが相互に利用し、そのデータがどこにあるのかを知る必要もなく利用可能

    まさに「インターネット」そのものです。

    このメモに基づくネットワークシステム「ARPANET」の実現を目指して多くのプロジェクトが同時並行的に動き出しました。

    ロバート・ファノにより実用的なタイム・シェアリング・システム「CTSS」が完成します。

    テレタイプ端末でMITから大陸を挟んだ西海岸のコンピュータに10人同時接続で利用することが可能でした。

    リックライダー、ARPAを離れる

    ひと通りプロジェクトが動き出すと、リックライダーはIPTOの局長の座をアイヴァン・サザランドに譲ってしまいます。

    サザランドは、かつてリックライダーが開発したライトペンとディスプレイ・システムを使って様々な図形を描ける「Sketchpad」を開発した人物です。

    引退に際して、IPTOの予算を年間1500万ドルに増額することをARPA上層部に認めさせました。

    後進のためにしっかり環境を整えたうえで、リックライダーは1964年6月、ARPAを離れました。

    彼がARPAにいたのはわずか1年7カ月ほどです。

    しかし、その間にまいた様々な種はやがてインターネットに結実します。

    明確なネット社会のイメージ

    ARPAを辞めたリックライダーはIBMに入社します。

    そこで、「グラフィカル・ユーザ・インターフェース」を使って直感的にプログラミングする研究を始めます。

    彼の構想は常に時代の先へ行っていました。

    1965年、IPTOはロバート・テイラーが3代目局長に就任しました。

    テイラーもリックライダーの「人間とコンピュータの共生」に魅せられた人物の一人です。

    リックライダーはテイラーと共同で「コミュニケーション・デバイスとしてのコンピュータ」という論文を著します。

    ここで彼は将来はコンピュータにより「豊富な生きた情報を対話型で利用でき、本や図書館を受動的に利用するだけでなく、共同作業に積極的に参加できるようになる」と主張します。

    そして、電子商取引、デジタル・ライブラリ、オンライン・コラボレーションなどが可能となる未来像を示しました。

    より明確にネット社会の将来像が描かれています。

    はじめての「ログイン」

    1968年6月、後にIPTO4代目局長となるローレンス・ロバーツは全米4つの大学を相互に結ぶ「ARPANET」を立ち上げることを宣言します。

    ロバーツはBBN社のロバート・カーンとともに、「Interface Message Processor(IMP)」という、ネットワーク間のパケット転送を行う装置を開発しました。

    これは現在の「ルーター」の原型となったものです。

    1969年10月29日、このIMPを取り付けた最初のARPANETのリンクが、カリフォルニア大学ロサンゼルス校とスタンフォード研究所 (SRI) の間に確立されました。

    UCLAのレナード・クラインロックの研究室からSRIのダグラス・エンゲルバートの研究室に向けメッセージが送信されました。

    最初の文字は「l」、次に「o」。

    そこでシステムがクラッシュしました。

    本当は「login」と送りたかったのですが、2文字しか送れませんでした。

    しかし、この2文字がインターネットの産声となったのです。

    にゃんこ師匠にゃんこ師匠
    最初の送信は2文字で途切れてしまったが、1時間後につなぎなおして、無事文章の送信に成功しておる
    ミツオカミツオカ
    よく、「ARPANETは核攻撃に耐えられるように頑健に作られた」って言われているのに、最初はやっぱり大変だったんですね
    にゃんこ師匠にゃんこ師匠
    ああ、それはよく言われるておる話じゃが、ウソじゃ
    ミツオカミツオカ
    ええ!?
    ウソなんですか?
    にゃんこ師匠にゃんこ師匠
    確かにARPANETは中心を持たないネットワーク構成とパケット通信によって、簡単には途切れないネットワークを目指しておった。
    しかし、それは核攻撃うんぬんより、今見たように初期のノードはダウンしやすかったからなんじゃ
    ミツオカミツオカ
    どこかが鯖落ちしてもつながるようにってことですか?
    にゃんこ師匠にゃんこ師匠
    軍の要請に叶うものなのは確かじゃが、当時、高性能なコンピュータは数が少なかったから、なんとか遠くのマシンにつなげて作業したいという研究者の要望が優先されて作られたものなんじゃ

    ARPANETからインターネットへ

    1969年末までにARPANETはカリフォルニア大学サンタバーバラ校とユタ大学を加えて4つのノードで稼働を開始しました。

    これまではそれぞれのホストにつなげるには別々の端末が必要でしたが、相互につながり同じネットワーク上で操作が可能となりました。

    1970年には13台、1972年に29台、1973年に40台と年を追うごと接続台数は増えていきました。

    ネットワーク内で「電子メール」や「ファイル転送(FTP)」といった技術も生み出されていきます。

    1973年に衛星回線を通じてノルウェーと接続し、地上回線でロンドンとつながり、ARPANETは地球規模の拡大を見せ始めます。

    1975年にARPANETが稼働状態にあることが公式に宣言され、管理運営はARPAからアメリカ国防情報システム局に引き継がれます。

    日本からは1981年に東北大学がはじめてARPANETと接続しました。

    DECやヒューレット・パッカードといった企業からの接続も増えていきました。

    1983年、軍に関係する部分が切り離され、ARPANETは研究機関のためのネットワークとして独立。

    1980年代後半に、NSF(全米科学財団)によって構築された「NSFNET」など、他のネットワークと接続されていき、やがてそれは「インターネット」と呼ばれるようになりました。

    コンピュータの「ジョニー・アップルシード」

    アメリカの西部開拓時代に「ジョニー・アップルシード」と呼ばれた人がいました。

    本名はジョン・チャップマンという実在の人物です。

    麻袋を着て鉄鍋をかぶり、はだしで国中を歩きながらリンゴの種を植えて回ったといいます。

    質素で親しみやすい人柄で、開拓者精神を代表する人物として数多くの逸話や伝説が残されています。

    リンゴはアメリカを象徴する果物で、彼が植えたとされるリンゴの木が今も残っています。

    J・C・R・リックライダーを「コンピュータのジョニー・アップルシード」と呼ぶ人もいます。

    未開の荒野だったコンピュータネットワークの地平を切り開き、様々な種をまき、それはやがて実りを迎えました。

    ロバート・カーンはヴィントン・サーフとともにバラバラだったネットワーク技法を統一するため「TCP/IP」を開発しました。

    「Project MAC」のメンバーだったロバート・メトカーフは後に「イーサネット」を生み出します。

    同じく「Project MAC」のCTSSは「Multics」というOSの開発に発展し、ケン・トンプソンの手で「UNIX」として完成します。

    ロバート・テイラーはパロアルト研究所で最初のパソコン「ALTO」を作りました。

    ダグラス・エンゲルバートもNLSやハイパーテキスト、GUIの研究を続け、「マウス」を発明しています。

    いずれもリックライダーがいなければ生まれなかったかもしれません。

    リックライダーの死とネット時代の幕開け

    ARPAから離れたリックライダーは、その後MITに戻り「Project MAC」を指揮していましたが、1971年にはそこも辞任しています。

    1974年には乞われてIPTOの局長に復帰しますが、時代は変わり、直接軍事とかかわりのない研究には、あまり予算が付けられなくなっていました。

    それでも彼が60年代に立ち上げた人工知能の研究の存続に尽力し、1980年代にはエキスパートシステムの商用化にこぎつけています。

    晩年はMITの教授となりますが、慢性的な喘息とパーキンソン病に苦しめられていたといいます。

    1985年、MITで開かれた退職パーティには300人もの人が集まり、彼の功績をたたえました。

    1990年6月、自宅で倒れ、75歳で息を引き取ります。

    彼の死の直前の2月、ARPANETは新しいネットワークに引き継がれ、正式に終了しました。

    そして、この年の12月20日、ティム・バーナーズ=リーが世界初のウェブサイト(http://info.cern.ch/)を公開しています。

    本格的なインターネットの時代が幕を開けました。

    その時代を見ることはかないませんでしたが、彼が予見した通り、多くの人々がインターネットにより効率的な生活を送れる時代が訪れたのです。

    ミツオカミツオカ
    ひとつ気になることがあるのですが!
    にゃんこ師匠にゃんこ師匠
    なんじゃ?
    ミツオカミツオカ
    ARPANET って軍事目的で立ち上げられたはずですけど、あんまり軍事と関係なくないですか?
    にゃんこ師匠にゃんこ師匠
    気づいてしまったか・・・
    ミツオカミツオカ
    まさか!?
    にゃんこ師匠にゃんこ師匠
    いや、リックライダーも別にだます気はなかったと思うぞ
    ネットワークを構築し研究をはかどらせる事を優先したが、それで多くの技術が生まれ、結果的にアメリカの国益に大きく寄与したわけじゃからな
    ミツオカミツオカ
    でも途中で「直接軍事に関わらない研究には予算がつかなくなった」って言ってましたね
    にゃんこ師匠にゃんこ師匠
    60年代後半にベトナム戦争が敗色濃厚になったあたりからアメリカ政府も焦りだして軍事と直接関係のない研究開発からは手を引いておるな
    70年代以降、コンピュータやネットの進化は民間の手にゆだねられていったんじゃ
    ミツオカミツオカ
    そこからアップルやマイクロソフトが生まれてくるわけですか
    にゃんこ師匠にゃんこ師匠
    その通りじゃ!
    ミツオカミツオカ
    でも、その呼び水のためにも最初に国がドーンとお金を出したのは正解でしたね
    にゃんこ師匠にゃんこ師匠
    今回はよく理解したようじゃな!
    ミツオカミツオカ
    はい!
    ここはひとつ会社の発展のためにも、ドーンと私にお金を・・・
    にゃんこ師匠にゃんこ師匠
    それはない!

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