最も古いプログラミング言語「COBOL」はおばあちゃん言語?
相当古い言語ですよね?
誕生したのが1959年じゃから、2022年で63歳になる
お似合いです!
しかし、COBOLはどちらかというと「おばあちゃん言語」じゃぞ
COBOL開発者のグレース・ホッパーはアメリカ最初の女性数学博士で、最初期のプログラマーにして海軍軍人。
そしてCOBOLを開発したのはなんと50代の時じゃった
でも、興味出てきました!
女性学者の道を切り拓いたグレース・ホッパー
グレース・ホッパーは1906年、本名は「グレース・ブリュースター・マレー」としてニューヨークで生まれました。
日本では日露戦争が終結した翌年、明治39年にあたります。
子どもの頃から好奇心旺盛で、7歳の頃、家中の時計を分解しようとしたことがありました。
そんなグレースを、母親は叱りつけたりせず、分解してもいい時計をひとつ与えて自由にさせていました。
母親のメアリーも、かつて学問の世界にいながら女性というだけでその道を閉ざされた経験をもっていました。
娘には自分のやりたいことを自由にやってほしいと考えていたのです。
女性で初の数学の博士号を取得
そんな母親の後押しもあり、理数系の才能を伸ばしたグレースは名門女子大のヴァッサー大学に入学します。
在学中にヴィンセント・ホッパーと結婚し、ホッパー姓となります。
夫も後にニューヨーク大学の教授となる、エリート夫婦でした。
1928年にイェール大学の大学院へ進学し、卒業後は母校の大学で教鞭をとります。
1934年には数学の博士号を取得し、母親がなしえなかった夢をかなえました。
女性で数学の博士号をとったのは彼女が史上初です。
軍隊へ志願
グレースは1941年には准教授にまで昇進しました。
しかし、第二次世界大戦がはじまると、転機が訪れます。
新しいことへのチャレンジ精神にあふれた彼女は、なんと海軍に志願したのです。
彼女はこの時すでに37歳で、家族も当然大反対します。
当の海軍も、小柄な体格に加えて年齢も高すぎる彼女の入隊を拒否します。
しかそれでもあきらめず、困難を乗り越え、海軍予備隊に入隊します。
ハーバード大でプログラミングを担当
海軍では数学者としての能力を買われ、ハーバード大学での、コンピュータのプログラミングに従事します。
当時、ハーバード大ではハワード・エイケン博士とIBMが協力して、最初の電気機械式計算機である「ハーバードマークⅠ」が制作されていました。
ハーバードマークⅠは全長16m、高さ2.4m、奥行き60㎝、総重量4.5トンのモンスターマシンです。
無数のスイッチ、リレー、歯車から成り、使われている電線の総延長は800㎞、5馬力の電気モーターで駆動します。
そして、アメリカで作られた最初のプログラミングできるコンピュータでした。
グレースは最初期のプログラマーとして、コンピュータの仕事に熱中します。
どうやってプログラミングしていたんですか?
何の計算をしていたんですか?
マンハッタン計画の一環として爆縮のシミュレーションを行っておった
「バグ」という言葉の名付け親!?
プログラミングの欠陥のことを「バグ(bug)」と言います。
グレースは「マークⅠ」の後継機「マークⅡ」のプロジェクトで働いていた際、不調になった機械を調べたところ、リレーに虫が挟まっているのを見つけました。
彼女はこの虫を作業日誌に貼りつけ「本物の虫が『バグ』として発見された最初の例」と書き記しました。
このことで彼女がプログラムの欠陥を「バグ」と名付けた人物と紹介される事もありますが、機械の不具合の事を「バグ」と呼ぶ例はもっと昔からありました。
たとえばエジソンは1878年に同僚に宛てた手紙で、機械の故障を「バグ」と呼んでいます。
彼女がこの虫のエピソードを好んで語っていたことから、プログラムの不具合の事を「バグ」と呼ぶことが広まった、というのが実際のところでしょう。
電子的にプログラミングする以前からパンチカードの入れ間違いや配線のつなぎ間違いなんかも起きていたんじゃ。
有史以来、どんな天才が作ったプログラムにもバグはあったといえるな!
人間なんだからしょうがない、という感じですね
「バグを出したことがないものだけがこのバグを責めよ」じゃ
人生のどん底へ
エイケン博士と共同で論文を執筆するなど、有能なコンピュータ科学者として活躍をつづけたグレース。
しかし、彼女の人生は不調をきたします。
あまりに仕事熱中しすぎたため、ほったらかしにされた夫は不満を募らせ、1945年、離婚を言い渡されてしまいました。
ハーバードでの仕事も保守的な組織の中でキャリアの天井に突き当たります。
ストレスからアルコールに逃げるようになった彼女は寒空の下で酔いつぶれ、警察に保護され一命をとりとめるという有様でした。
うつ病も発症し、川に身を投げようとしたこともあります。
しかし、どん底の彼女を再び立ち上がらせたのはやはりコンピュータの仕事でした。
機械と会話できる言語の発明
1949年、彼女は民間の「エッカート=モークリー社」に移籍します。
「世界最初の電子計算機」と呼ばれる、「ENIAC」を制作したジョン・プレスパー・エッカートとジョン・モークリーが設立した会社です。
ここで彼女は世界初のビジネス用汎用電子デジタルコンピュータ「UNIVAC」の開発に参加します。
コンピュータと英語で会話する
当時は8進法や記号によるプログラミングが主流でした。
しかし、彼女は日頃「プログラムは英語で書けるようにすべきだ」と唱えていました。
機械語では、特殊な訓練を受けた人間しかコンピュータを扱えません。
コンピュータを身近なものにするには、もっとわかりやすい、人の言葉に近いプログラミング言語が必要だと考えていました。
しかし、周囲の人からはあまり理解を得られません。
そこは
許可を求めるな(やってしまってから)謝罪せよ
Don't ask for permission, beg for forgiveness
が身上のグレース。
独自に研究を重ね、1957年、世界初の英語のような構文を用いたコンパイラ言語「FLOW-MATIC」を開発しました。
COBOL誕生
これに目をつけたのがアメリカ国防総省です。
当時の事務処理言語は開発メーカーごとに異なり、非効率かつ混乱していました。
これを統一しようと考えた国防総省は、グレースに働きかけ、1959年、「FLOW-MATIC」を改良した「COBOL」が完成します。
アメリカ政府の事務処理システムは全てCOBOLのみで納品される事となり、事務処理用言語として世界中に普及することになりました。
この時、彼女はすでに53歳になっていました。
どういう意味ですか?
日本語にすると「共通事務処理用言語」じゃな
やっぱり「ビジネス」って言葉が入っているんですね
事務手続きの処理を英語で記述していけば、それをほぼそのままプログラムで再現できるということで、オフィスワークが一気に電子化されたんじゃ
70年代から80年代にかけて、ビジネスアプリケーションの開発に携わる者にとってCOBOLは必須の言語だったんじゃ
海軍准将グレース・ホッパー
生涯の大半をプログラミングの最前線での仕事に費やしていましたが、その間も彼女はずっと海軍に在籍していました。
1966年、中佐で海軍予備役に退きますが、翌1967年には現役に復帰。
1967年から1977年までの間は、海軍の情報システム計画局で海軍プログラミング言語グループのディレクターを務めています。
1973年には大佐となり、1986年に退役した時には准将となっていました。
この時、79歳。
引退後はDEC社の顧問となり、各地でコンピュータを一般の人が使えるようになったことの意義について講演してまわりました。
海軍をすでに退役しておったが、講演の際は海軍の礼装でビシっと決めておったらしいぞ
女性で軍人でプログラム言語開発者ってものすごいキャリアですね
永遠に残る彼女の偉業
素晴らしい業績を残した彼女は、有名な楽曲になぞらえ「アメージング・グレース(驚異のグレース)」とたたえられました。
そんな彼女も、1992年、85歳で亡くなりました。
アーリントン国立墓地で行われた壮大な葬儀は全米に生中継され、多くの人がその死を悼みました。
亡くなった後も彼女の栄誉はいたるところで称え続けられています。
1996年 | アーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦20番艦「ホッパー」進水 |
2009年 | 米国立エネルギー研究科学計算センターのメインシステムが「ホッパー」と名付けられる 海軍情報局が「グレース・ホッパー情報サービスセンター」を設立 |
2017年 | イェール大学に「ホッパー・カレッジ」開校 |
2020年 | Googleの海底ネットワークケーブルが「グレース・ホッパー」と名付けられる |
2021年 | サイバーセキュリティのリーダーを表彰する「アドミラル・グレース・ホッパー・アワード」設立 |
2022年 | Nvidiaが次世代GPU「Hopper」を発表 |
1945年に離婚したのち、彼女は生涯再婚せず、「グレース・ホッパー」を名乗り続けました。
その一生を仕事にささげた彼女の名は、多くのプログラムと記念碑と人々の記憶の中に残り続けています。
もっと多い8000億行を越えているという推定もあるくらいじゃ
私も彼女みたいに歴史に名を残したいです!
まずはなにかを創り出すのじゃ!
まずは、海軍に志願してきます!🔥