インターネットがないと生きてけない!
インターネット・サムライ
日本のインターネットの歴史を語るとき、どうしてもその人の名前抜きでは語ることのできません。
その人こそ、村井純(むらいじゅん)氏です。
村井氏は日本の計算機科学者で、日本でインターネットが始まるキッカケをつくり、技術的基盤から運用、啓蒙活動にずっと関わり続けています。
「日本のインターネットの父」といわれ、英語圏では『インターネット・サムライ』のニックネームで呼ぶ人もいるのです。
村井氏は、まだ「OS」というモノがない時代に、オペレーティングシステムの研究から始まり、日本で最初に『コンピュータ同士を接続する』ネットワークの研究に取り組んだ人物なのです。
村井氏は現在、慶應義塾大学大学院 政策・メディア研究科委員長 兼 慶應義塾大学環境情報学部教授をされています。
コンピュータに目覚める
村井氏が慶應義塾大学工学部の学生だった頃、ようやくメインフレームという形でコンピュータが導入されてきました。
当時のコンピュータは、パンチカードにプログラムを書き、行列に並び、「計算してください」とお願いして順番に計算してもらっていたのです。
村井氏は、そんなコンピュータに全く魅力を感じていませんでした。
人生を変える出会い
しかし、3年のころ数理工学課に移り、演習の授業でLISPの研究をしていた中西正和教授と出会い、ミニコンやプログラムという世界にのめり込みます。
つまらないと思っていたコンピュータへの見方が、これまでとは180度変わり、3日くらい連続で徹夜をすることが度々あったそうです。
こうした師に恵まれた環境の下で、『人間を中心に考えるコンピュータ』を考えていくようになっていきました。
人間のためのコンピュータ
そんな村井氏が中西教授から「やれ!」と言われたのが、『オペレーティングシステムの分析』です。
ここから『人間が真ん中にいてコンピュータがそれを支える』というモデルを描けるようになったといいます。
複数のコンピュータが人間の周りにあった時に、一台ずつ指示をしていくのではなく、これらが力を合わせて人間を支えるというモデルです。
この発想が村井氏のコンピュータサイエンスと、コンピュータネットワークの研究の出発点となっていきました。
UNIX開発と出会い
UNIXというオペレーティングシステムは、世界で初めてコンピュータ会社でない所で作られた基本ソフトです。
それまでのスタイルは多くの場合、自社コンピュータの性能を引き出すために自社開発するのが普通でした。
しかし、UNIXはベル研究所という研究所が開発したのです。
コンピュータ会社が作ったオペレーティングシステムとは違う、同じマシンで走る、全く別のオペレーティングシステムを開発するというアプローチでした。
デニス氏との議論の末に
左:ケン・トンプソン 右:デニス・リッチー
出典:ウィキペディア
村井氏は、このデニス・リッチー氏が来日した際に会っているのですが、この時にこのような議論が交わされたそうです。
村井氏
「人間のためのコンピュータといっても、オペレーティングシステムは全部英語を基準に書かれている。
変数型も8ビットで26文字のアルファベットしか入れられない構造になっているじゃないか。
ましてや、世界中の人が全員英語を使っているわけではないだろう。」
デニス氏
「え?ほんとうかい?」
この議論から、日本語をどうやってコンピュータで表現するかという研究が始まったのです。
一年後に村井氏が招かれて渡米した際、ベル研究所に招かれてデニス氏に見せられたものは、漢字を表示するビットマップディスプレイでした。
世界中に広まるUNIX
一方、ケン・トンプソン氏は、カリフォルニア州立大バークレー校でUNIXについて教えていました。
この時バークレー校にいた学生、ビル・ジョイと、スタンフォード大学のネットワーク環境のエンジニアだったアンディ・ベクトルシャイムは、一緒に組んでバークレー校で独自にUNIXを進化発展させ始めました。
グーグルの社長も、アップルの社長も、みんなこの時の学生でUNIXの開発に携わっていたのです。
ここでつくられたUNIXは、BSD(Barkley Software Distribution)という名称で知られています。
彼らは、これを世界中に無償で配布したため、世界中の人たちがソースコードを見て研究し、ほとんどの大学や研究所がUNIXを使うようになっていったのです。
日本のネットワーク開発
その後、村井氏は東京工業大学へ移りコンピュータネットワークの研究に本格的に取り組むようになります。
そこで始めたのが、日本の大学同士をコンピュータネットワークで繋ぐということでした。
これが「JUNET」の誕生です。
JUNETは、たちまち100以上の大学と繋がり、日本でもコンピュータネットワークについての認識ができてきました。
しかし、ネットワークを広めていくにあたっては障壁があったのです。
いざ、東京大学へ
村井氏の活動は大学の研究の一環でした。
しかし、当時、コンピュータネットワークの研究には学会がなく、研究をしても発表の機会がなかったのです。
「世間に認められにくい」と感じた村井氏は、思い切って東京大学に移ることにします。
東京大学での村井氏の立場は、有期教員でした。
認められるまで
期間に限りがある中、全力で初期のインターネットの開発に取り組みます。
しかし、「ダイヤルアップではなく、専用線で接続する必要がある」ということを説得して回っても、理解してくれる人がいませんでした。
また、そのことを東京大学で説明すると、「民間企業と国立大学が接続するなどとても考えにくい」と言われてしまいました。
ただ、村井氏は、アメリカでUNIXの開発に携わった経験から、こんなことでは引き下がりませんでした。
知恵を働かせた結果、著書の発行元でもある「岩波書店」の許可を取りつけることに成功します。
日本のネットワークを世界と繋ぐ
そして、村井氏は、JUNET とアメリカのネットワークを繋ごうと考えるようになり、様々な研究をしていました。
そんな時、アメリカとの間でデータベースにアクセスするための専用回線が用意され、この回線を使って電子メールをやり取りしたいと、村井氏はアメリカへ呼ばれました。
ついに海外と繋がる
ここは村井氏の技術の出番!と言いたいところですが…
当時のインターネットは、信頼性に乏しかった為「この方法でやりましょう」とは言えなかったと語っています。
本音をいうと村井氏は、密かに「この回線を使ってアメリカにインターネットを繋いでやろう」と考えていたので、
「24時間使えるように全部の帯域をX.25でデータベースアクセス用に使ってもらい、あまりの帯域があれば電子メールの交換ができるようにする事で、一つの技術でこの回線を両方の目的に使うことができます。」
と提案しました。
実は、データベースで検索するデータは、ほとんどが小さなもので、電子メールも大した量ではないのです。
そして、にわか作りで「X2.5」上でインターネットを動かす技術を開発し、乗せたところ完璧に始動したのです。
日本が世界とつながる条件
日本のコンピュータネットワークが世界とつながっていく兆しが見え始め、ある意味存在感を示すことができはじめた時の事です。
そういったこともあり、アメリカの有名な研究者が村井氏の元を訪れるようになりました。
そこでの議論は、「アジアをどうやって繋いだらいいだろうか?」ということでした。
インターネットを世界中に広げるにあたり、欧米でない地域も含む多様性の導入を、どうやって欧米の関係者に理解してもらうかということに、日本の役割が重要になると村井氏は考えていました。
言葉の壁
その頃のUNIXは、まだ自由に日本語を使える環境にありませんでした。
日本のコンピュータサイエンスの研究者たちも、お互い電子メールのやり取りをしていましたが、英語ではなく「ローマ字で日本語」を書いているような状況でした。
研究者の多くは、論文などの英語は理解することはできても、「英語でコミュニケーションはとれない」ということが分かりました。
村井氏と研究者たちは必要に迫られ、日本語処理とインターネットの研究が急速に進展します。
それまで英語一辺倒であったコンピュータの環境に、最初に日本語の処理が入ったことによって、日本以外の各国語の処理が開発されるようになりました。
これをソフトウェアのインターナショナライゼイーション(internationalization)といいます。
必要不可欠な日本の研究者
ベル研究所とISO(国際標準化機構)も「i18n」で動きはじめた為、後の「Microsoft Windows」や「MSOffice」の国際化もこれに準拠することとなったのです。
こうした意味において、村井氏をはじめとする日本のコンピュータサイエンスが、世界のインターネット進展に果たした役割は、とても大きかったと言えるでしょう。
これをキッカケにして「日本の研究者をコアのメンバーに入れないとインターネットは世界のものにならない」という意識が浸透したと、村井氏はのちに述べています。
その後、村井氏はグローバルなインターネットの国際組織『インターネットソサイエティー』の最初の国際会議の開催を、1992年神戸で成功させ、世界と日本のインターネット発展のキッカケを作りました。
さいごに
こうして村井氏は、日本にインターネットを誕生させ、世界と接続し、国際的な地位を高めたのです。
まさに「インターネットの父」「インターネット・サムライ」と呼ばれる理由がお分かりになったでしょうか。
村井氏は、今の社会は「インターネット文明」の中でできていると言っています。
そして、インターネット文明の中で私たちがどういう未来を作っていけるのかは人間次第であると述べています。
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