はじめに
英国ロマン派詩人バイロン卿の一人娘
1815年、イギリスの詩人バイロン卿と、その妻アナベラ・ミルバンクとの間に、1人の可愛い赤ん坊が生まれます。
その子の名前は、「オーガスタ・エイダ・バイロン」。
父親バイロン卿は、数多くの女性と恋愛を重ねたモテ詩人と言われており、スキャンダラスなエピソードが多い人物でした。
また、母のバイロン夫人アナベラは、高度な教育を受けた女性であり、特に数学と詩にその才能を発揮しました。
この面白い経歴を持った2人から生まれた赤ん坊こそが、のちに世界最初のプログラマーと呼ばれる「ラブレス伯爵夫人」となるのでした。
英才教育を受ける
母アナベラは、エイダに「数学」と「科学」の家庭教師を付けることにしました。
その中には、かの有名な数学者で論理学者のド・モルガンも居ました。
モルガンは、記号論理学の先人の一人であり、「ド・モルガンの法則」を考えたことで有名ですね。
今日のコンピュータの論理回路につながる、基本思考の基礎を創った人物とも言えます。
そんな影響もあり、エイダも「数学」に高い関心を持つことになります。
エイダ、チャールズ・バベッジに出会う
1833年6月5日17歳の時、エイダはバベッジ家で開かれた会合で「チャールズ・バベッジ」と初めて会いました。
そして、その月の21日、母親に連れられバベッジの開いた談話会に出席します。
そこで、彼の造った「階差機関(ディファレンス・エンジン)」の7分の1のモデルを見て、それにエイダは強い興味を持ちました。
この後、彼女は機械工学研究所で開かれた「階差機関」についての講義にも出席することになります。
この頃からエイダとバベッジの間に、師弟関係が成立したのでしょう。
ちなみに、バベッジは、後に「コンピュータの父」と言われる人物です。
エイダ、バベッジの公演原稿を翻訳する
エイダは、バベッジの「階差機関」だけではなく、より難解な「解析機関(アナリティカル・エンジン)」の原理も理解しました。
当時、それを理解していた人間は、彼女が唯一であったでしょう。
1840年、バベッジはイタリア科学者会議から招待を受け、トリノを訪問します。
この時の彼の講演内容を、「フェデリコ・ルイジ・メナブレア」と言う若い数学者が、フランス語で1冊の本にまとめました。
完全なる実証の提供
1842年10月、パリで出版されたその本を読んだエイダは、すぐさま英語への翻訳を申し出ます。
バベッジの許可を得た彼女は、原本の数倍の注釈を加え、メナブレアの原作本の不備を補いました。
メナブレアの原作では、本文の長さが20ページであるのに対し、エイダの注釈および付録は50ページ以上に及んでいます。
彼女が付けた注釈のおかげで、この難解な書物も一般の人々に受け入れられました。
エイダの注釈を読んだバベッジは、この論文と注釈を併せると、「解析の展開と操作の全てが機械によって実行できる」と言う推論を理解できる人々に、「1つの完全なる実証を提供する事になる」と述べています。
2進法での説明を思いつく
エイダは翻訳作業を通して、「2進法」の考えを用いれば、このバベッジの難解な機械理論を説明できることを発見します。
彼女は、今日のコンピュータの基本的思考法をはっきり認識した「最初期の一人」になりました。
また、彼女はサブルーチンの考えにも言及し、「解析機関は作曲もやってのけるだろう」とも言っています。
イリノイ大学のコンピュータ「イリアック Illiac」が、「弦楽四重奏のためのイリアック組曲」を作ったのは、1950年代の後半になってからでした。
解析機関の優位性を主張する
また、エイダは「解析機関」と「階差機関」の違いも強調しています。
「解析機関」は、ジャカールのパンチ・カードの利用により、広汎な仕事をこなせるシステムであると主張しています。
しかし、「解析機関」の優れた能力に対し、「階差機関」は数表計算のための、ただの演算機械に過ぎないと考えていました。
翌1843年、バベッジの許可を得たエイダは、この翻訳書をロンドンで出版します。
不幸だった晩年
エイダの晩年は、恵まれたものではありませんでした。
もともと競馬の熱心なファンであった彼女は、バベッジの本の翻訳作業を終えると、心の張りを失ったように競馬にのめりこんで行きます。
賭けで大きな負債を負ったエイダは、手持ちの宝石類を質屋に預けねばなりませんでした。
酒やアヘンにも溺れ、さらには命を脅かす病が彼女を襲います。
エイダはガンにおかされ、激しい痛みとともに彼女を苛みました。
1852年11月27日、36歳の若さでエイダは亡くなりました。
世界最初のプログラマー
「エニグマ」の解読者として有名なアラン・チューリングは、公演の中で彼女の事績に触れ、エイダの存在を人々に認識させた人物でした。
1980年、米国国防省が開発したプログラミング言語「ADA」は、無論このラブレス伯爵夫人の名前から名付けられたものです。
今日、エイダが世界最初のプログラマーと呼ばれるのは、難解な機械を数式を用いて分析し、それを一般の人々にもわかりやすい形で説明する手順を作り上げたことによります。
彼女なくしては、バベッジの先駆的な「解析機関」の設計思想も、地に埋もれたまま陽の目を見なかったかもしれません。
早く生まれすぎたプログラマー
「世界最初のプログラマー」の称号は、エイダの優れた功績を讃えて与えられたものです。
しかし、残念ながら彼女が生きていた当時は、「プログラマー」の概念そのものがありませんでした。
世界最初のプログラマーは、「早く生まれすぎたプログラマー」でもありました。
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