「携帯ゲームの父」って誰?
Swichでブレワイでイノシシ追いかけてる時が一番幸せ!
でも、「携帯ゲームの父」はどんな人なのかすごく興味あります!
では、今回は「横井軍平」さんを紹介していこかのぉ!
遊び人の学生時代を経て任天堂に入社
横井軍平さんは、1941年に京都府京都市で生まれました。
小学3年生のときに鉄道模型を買ってもらったことがきっかけで、学生時代は鉄道模型にはまっていました。
高校生のときは、自作の鉄道模型が専門誌の雑誌に掲載されたほどのめり込みました。
同志社大学工学部電気工学科に進学しても、鉄道同好会に在籍していたほどです。
そんな学生時代の横井さんは、相当な遊び人だったため成績は決して良くはなく、大手家電メーカーへの就職を希望するも全滅。
半ば仕方なく、任天堂株式会社に入社します。
任天堂に初めて入社した工学部卒業者
横井さんが入社した1965年当時の任天堂は、1963年に任天堂骨牌(かるた)株式会社から商号を変更したばかりの小さな会社でした。
以前の社名からわかるように、昔の任天堂は主にトランプや花札などのカードゲームを専門に製造・販売していました。
実は、日本で初めてプラスチック製トランプの製造に成功したは任天堂だったのです!
現在のゲーム機とは全く違う業務内容の任天堂に入社した横井さんは、任天堂で初めての工学部卒業者でもありました。
遊び人の性格からウルトラハンドを開発
横井さんは、電気設備機器のメンテナンスの仕事をまず任されました。
理系出身者で電気主任技術者の資格を持っていた横井氏は、おもちゃの開発や製造の仕事での採用ではありませんでした。
しかし、メンテナンスの仕事の合間に暇つぶしでとある「おもちゃ」を作ります。
格子状の機構が伸び縮みするおもちゃで、社内でそれで遊んでいたところ山内溥社長に見つかってしまい呼び出されてしまいます…
まさか、仕事中に遊んでるのがバレてクビ?
ウルトラハンドのヒットで開発課ができて異動
暇つぶしに作った伸び縮みする格子の玩具で遊んでいたところを見つかり、社長室に呼び出された横井さん。
「それをゲームとして商品化しろ!」
何らかの処罰を覚悟していましたが、それが社長の言葉でした。
そこで、伸びるだけでなく物をつかめるように改良して「ウルトラハンド」として商品化したところ、なんと140万個も売れる大ヒット!
ウルトラハンドの大ヒットをきっかけに、任天堂に「開発課」が設立!
ついに、商品開発を任されるようになります!!
社長のワンマンと多角経営が横井氏の運命を変えた?!
暇つぶしに作ったおもちゃがきっかけで任天堂に開発課が設置されて商品開発を任された横井さん。
この運命には、社長の山内溥さんの存在がとても大きかったのです!
山内社長はアイディアマンで独特な経営哲学の持ち主で、悪く言えばワンマン経営者としても知られていました。
横井さんが入社する前の1950年代には、日本初のプラスチック製トランプの製造や、ディズニートランプの発売でかつてないほどの業績をあげました。
ただ、その業績によって、社長の意見に物申すことができない雰囲気が社内にはあったと言います。
多角経営で倒産危機に陥っていた任天堂
1950年代のトランプでの成功から、1960年代に入ると社長の考えで任天堂は多角経営に入り始めます。
タクシー会社や食品会社を共同経営したり、任天堂でも他業種に進出したりなどしました。
しかし、多角経営はうまくいかず、トランプブームが下火に。
そして、1964年には倒産の危機を迎えてしまいます。
横井さんが入社した1965年は、まさに任天堂が倒産寸前と言えた苦しい時期だったのです。
山内社長は横井さんのおもちゃで起死回生を願い、独断で商品化を命じたんでしょう。
「ヨコイズム」と「枯れた技術の水平思考」
横井さんの商品開発の2つの柱が、「ヨコイズム」と「枯れた技術の水平思考」です。
ヨコイズムは「ものづくりの哲学」であり、コミュニケーション性とシンプルな面白さを重視しています。
これは、遊び人の経験が活きたものになっています。
新しい技術を開発する必要がないため、コストが抑えられるメリットもありますね
ヨコイズムから誕生した多くの名機
横井さんの哲学「ヨコイズム」「枯れた技術の水平思考」からは、数多くの名機が誕生しました。
ここで、代表作をいくつか紹介します。
光線銃SP
1970年に発売された「光線銃SP」は、太陽電池を使用したおもちゃです。
太陽電池を電池として使わず、光に反応するセンサーとして利用しています。
太陽電池を電池ではなくセンサーとして使う、これぞ「枯れた技術の水平思考」です。
ラブテスター
ラブテスターは、男女が手をつないでもう片方の手でそれぞれ端子をつまむことで、手の汗を検知して電流が流れる仕組みのおもちゃです。
愛情度を簡単に測れるおもちゃですが、男女が気軽に手をつなげることが開発のきっかけであり、これぞ「ヨコイズム」です。
さらに、汗は電流を通す現象をおもちゃに利用した「枯れた技術の水平思考」も使われています。
ゲーム&ウォッチ
第一作が1980年に発売された「ゲーム&ウォッチ」は、任天堂の初の携帯ゲーム機です。
手元で気軽に遊べるゲーム性が大ヒットとなり、70億円近くあった任天堂の負債を完済できるほどの売り上げでした。
電卓用の液晶画面を利用した「枯れた技術の水平思考」と「ヨコイズム」が見事に融合しています。
実は、ゲーム&ウォッチの誕生は、社長の運転手さんが風邪になって横井さんが代わりに運転を務めたことがキッカケなんです。
運転中に雑談で構想を話したところ、社長はとても気に入りました。
そして、その日のうちに仕事の会合で会った電卓メーカーのシャープの社長さんと話をつけ、すぐに開発が進みました。
当初、任天堂社内では電卓のようなゲーム機の開発には冷ややかな反応でしたが、社長が開発への考えを通して実現しました。
ウルトラハンドの例と同様に、ここでも社長の存在が大きかったのですね!
ゲームボーイ
ゲーム&ウォッチの大ヒットの後、1989年に発売された携帯型ゲーム機があの「ゲームボーイ」です!
「スーパーマリオランド」「テトリス」「ポケットモンスターシリーズ」など、数多くの名作ゲームのソフトが発売されました。
ゲーム&ウォッチのようにシンプルにおもしろい携帯ゲーム機で、「ヨコイズム」が詰まった商品です。
モノクロ画面にすることで乾電池4本で連続35時間もプレイでき、外出先でも十分に遊べるようにしたコンセプトも「ヨコイズム」になります。
さらに、ケーブルを使って2台で対戦したり通信したりできる機能もヒットの要因となりました。
独立から1年後の若すぎる最期
横井さんは任天堂の商品開発の第一線で活躍し続けた後、55歳になる1996年に任天堂を退社します。
「50代になったら好きなことをする」という決意で自主退職し、自分のやりたい商品開発のために株式会社コトを設立します。
しかし、独立からわずか1年後の1997年に石川県の北陸自動車道で交通事故に遭って亡くなりました。
56歳という、あまりに若すぎる最期でした。
ただ、死去されてもなお、任天堂は「ヨコイズム」と「枯れた技術の水平思考」を継承しています。
2000年以降も、「ニンテンドーDS」「Wii」などヒット商品のゲーム機がいくつも誕生しました。
現在のゲーム文化は、横井さんが残した哲学を受け継いだ技術者たちが支えているのです。
ただ、現代のゲーム文化は、さまざまな人の運命によって創り出された産物でもあるのじゃ
では横井さんを見習って、今から遊んできます!
ん…?それも大事ことの1つともいえるな…