元王族の伝説のプログラマー?「ナーシャ・ジベリ」

なんかもう、こうパパッとできないもんですかね~





意外と知らない人が多そうなので、今回は、数々の伝説を残した凄腕プログラマー「ナーシャ・ジベリ」ついて解説しようかの!
アタリショックから世界放浪の旅
ナーシャ・ジベリは1957年生まれ、イラン出身のプログラマーです。
1978年に起きたイラン革命によって国を追われ、アメリカに渡り、コンピュータ科学を学びました。
1980年、友人とAppleII用ゲームの制作会社「シリウス・ソフトウェア」を設立。
とても仕事が早く、1カ月に1本のペースでゲームを世に送り出していました。
「SpaceEggs」や「Gorgon」といった人気作を次々に制作しますが、1982年には退社。
そして、新たに「ジベリ・ソフトウェア」を立ち上げます。
しかし、1983年には「アタリショック」などもあり、会社は倒産。
世界放浪の旅に出てしまいます。

ほんとにすごい人だったんですか?

飛行機事故で一時的に記憶喪失になったスティーブ・ウォズニアックが、ナーシャが作ったAppleIIのゲームを夢中でプレイしてたら記憶が戻ったという話があるぐらいじゃ。

ゲームで記憶が戻った!?

ウォズニアックはナーシャに直接お礼をしたというぞ!
慰謝料を稼ぎに日本へ
1986年、とあるゲームショウのパーティでスクウェア(現スクウェア・エニックス)社長の「宮本雅史」氏と出会います。
当時のスクウェアはまだファミコンのゲーム制作を始めたばかり。
優秀なプログラマーを探しており、ナーシャに「日本で稼がないか?」と声をかけました。
この時、ナーシャは離婚の慰謝料を稼がなければならないという事情もあったので、その誘いにのり、来日します。
そこで出会ったのが、後に「ファイナルファンタジー」を制作する坂口博信氏です!
ステーキしか食べない
坂口氏は宮本社長から「ちょっとこいつの面倒をみてよ」とナーシャを託されます。
AppleIIの愛用者だった坂口氏。
実は、ナーシャのことを知っていて、尊敬していました。
英語での会話もままならないながらも、必死にコミュニケーションをとり、毎晩夕食につきあっていたとか。
ちなみにナーシャは毎日ステーキしか食べなかったそうです(笑)

でも、イランの王族という話は本当なんですか?



最初はヒットに恵まれず
こうして、坂口たちとファミコンのゲームを制作し始めたナーシャ。
彼がスクウェアで最初に作ったのが「とびだせ大作戦」という、当時としては画期的な3Dゲームでした。
高低差まで表現しつつ、画面奥に向かってスクロールしていく3D描画は、いわば現代のFPSの原型です。
当時のファミコンのスペックでそれを実現したところにナーシャの卓越したプログラミング技術が見られます。
しかし、ゲームはまったく売れず、3D立体視ができる「とびだせメガネ」の在庫が倉庫に山積みになり、坂口は青くなっていたとか。
第2作「ハイウェイスター」は「ファミコン3Dシステム」の初対応作品で、高度な3D技術が駆使されていましたが、これも不発。
いよいよ後がなくなったスクウェア。
そこで、坂口氏は当時、最強の人気を誇っていた「ドラゴンクエスト」に対抗するRPG「ファイナルファンタジー」の制作に乗り出します。


「究極のファンタジー」みたいなニュアンス?

そこで、制作者たちの間で「最後の夢」になるであろうという意味を込めて『ファイナルファンタジー』と名付けられたという説がある…
あくまでも説じゃが…


ファイナルファンタジー伝説
しかし、アクションゲームやシューティングゲームばかり作ってきたナーシャ。
そもそも、RPG(ロールプレイングゲーム)が何なのか知りませんでした。
坂口氏は必死に説明しますが、「サカグチ、ソンナモノ、ドコガ面白インダ?」とお話しになりません。
結局、ゲームデザインの部分は坂口氏の盟友、田中弘道氏が務め、ナーシャはプログラムに専念します。
そこで、ナーシャは数々の伝説を生み出すこととなります。
飛空艇の高速移動
最も有名なのが、ものすごい勢いで画面上をスクロールしていく飛空艇のグラフィックです。
人気キャラ「チョコボ」の生みの親、石井浩一氏が「飛空艇に影をつけて浮いているように見せたい」と希望をだしたところ、坂口氏は「そんなの無理だ」と却下しました。
しかし、石井が後日ナーシャに相談してみると、翌日には飛空艇に影がついている上に4倍速での移動まで実現させていました…
15面パズルゲーム
「ファイナルファンタジー」の制作も佳境に入ったある日、ナーシャが坂口に自慢げに画面を見せ「サカグチ、押シテミロ」と言いました。
坂口は言われたとおりにコマンド操作をしたところ、いきなりパズルゲームが始まりました。
イースターエッグとして有名な15面パズルです。
「ファイナルファンタジー」のROMカセットの容量は256KB。
当時のゲームプログラミングは容量との戦いでしたから、坂口は「余計なことを」と思いつつ、結局パズルは収録されています。
ちなみに、「スーパーマリオブラザース」の容量が40KBでしたから、これでも「FF」は「大容量」の時代ではありましたが…
電話でデバック
1987年に発売された「ファイナルファンタジー」は大ヒット!
ナーシャはその後の「FF2」「FF3」にもメインプログラマーとして参加し、FFシリーズになくてはならない存在となっていました。
しかし、「FF3」制作時、ナーシャはビザの都合で一時、アメリカに帰国しました。
その時、制作現場では重大なバグが発生し、国際電話でナーシャに相談することにしました。
症状を聞いたナーシャが電話越しに指示した16進数を言われたところに入れ替えてみると、すぐにバグが直ってしまい、一堂、唖然。
ナーシャは自分が書いたアセンブラをすべて暗記していたといいます。


当時のゲームプログラミングに使われていた「アセンブリ言語」
ナーシャのおかげもあり、「FF3」では飛空艇の速度が徒歩の8倍まで伸びました。
ただ、この技術は「ファミコンのバグに近い挙動を利用して実現した」と言われています。
それはどういうことかというと、当時のゲームプログラミングに使われていた「アセンブリ言語」に秘密があります。
ハードの性能を100%引き出す天才的プログラミング能力
アセンブリ言語は機械語に近い低水準言語ですが、実行速度が速く容量も小さくてすむので、今でも一部の機器に使用されています。
そして、アセンブリ言語はハードの制御を直接行うことができます。
ナーシャはファミコンのCPUを詳しく調べ、仕様書に載っていない挙動まで把握しており、それをアセンブリ言語で制御して、様々な演出を実現していました。
これは、簡単に真似できるものではなく、ナーシャの書くコードはほかのプログラマーには理解できなかったといいます。
このようにナーシャはCPUの特性に極度の依存したプログラムを組んでいたため、他のハードでは再現が難しく、特に「FF3」のリメイクは難航を極めたといわれています。






「聖剣伝説2」を最後にスクウェアを去る
こうして、様々な伝説を作ったナーシャ・ジベリは1993年の「聖剣伝説2」を最後にスクウェアを退社します。
そして、再び世界を放浪する旅に出たといわれています。
その後、メディアなどにはめったに登場することはなく、それがナーシャを「伝説のプラグラマー」にしています。
1998年、ナーシャを尊敬するひとりで、「DOOM」シリーズなどを手掛けたゲームクリエイター、ジョン・ロメロの呼びかけにより開かれたApple II 20周年パーティで、久々に公の場に姿を現しました。
その後、カリフォルニア州サクラメントに在住し、坂口氏との交友は続いています。
ただ、2012年、ファイナルファンタジー25周年のイベントに招待する計画がありましたが、このイベントは残念ながら実現しませんでした…
さいごに
「ファイナルファンタジー」制作の初期メンバーは坂口博信氏をのぞき、わずか4名でした。
現在では、ゲーム制作の規模は当時と比べ物にならないほど大きくなり、組織的・分業的になっています。
ナーシャのように、ひとりの凄腕プログラマーによってクオリティが左右される時代は終わりを告げてしまいました。
それでも、面白さを追求し続けるプログラマーの創意工夫の積み重ねがゲーム文化をより豊かなものにしていることに変わりはありません!


あんな風に、いろんな伝説が生まれた面白い時代に戻りたいわい!




放浪してもナーシャにはなれん。