鉄拳エンジニア「デヴィッド・カトラー」
荒れておるのう
なんかもう暴れたい気分です…!
あまりにも壁を殴るもんだから、「ビル・ゲイツ」がコンクリート打ちっぱなしの部屋を用意したという噂もあるぞ
では、彼がいかにしてWindows NTを作ったか解説するかの
優良企業からプログラマーの道へ
デヴィッド・カトラーは1942年、ミシガン州ランシング市で生まれました。
大学では数学と物理を専攻し、フットボールチームではクオーターバックとして活躍します。
スポーツ万能でリーダーシップにあふれ、周囲から慕われるタイプだったとのことです。
1965年、大学を卒業した彼は、デュポン社に就職します。
デュポン社は化学メーカーの最大手でしたが、最初に担当した仕事は材質のテストで、とても退屈していたといいます。
プログラミングへの目覚め
しかし、その次に与えられた、デジタルマシン上でのコンピューターシミュレーションの仕事にはがぜん興味を持ちました。
オペレーティングシステムへの興味を深め、会社の許可を得てその研究に没頭することになります。
しかし、デュポン社では「思うようにOS開発に取り組めない」と思ったカトラーは退職を決意。
DEC社傘下の小さなソフト会社に再就職しました。
メロン財閥、ロックフェラー財閥と並ぶアメリカ三大財閥の一角じゃぞ
DEC社で「VMS」の開発で名をあげる
1971年、カトラーはDEC社に入社します。
DEC社は、1957年に創業したコンピュータメーカーで、当時、主力のPDPシリーズが業界を席巻していました。
そこでカトラーはPDP-11用のリアルタイムOS「RSX-11M」の開発に携わります。
1973年、「RSX-11M」は発売され、大きな成功を納めます。
この功績が評価され、最新のミニコンピュータ「VAX」用のOS開発のプロジェクトのリーダーに抜擢されました。
このプロジェクトにより生まれたOS「VMS」も大成功。
OS開発者デヴィッド・カトラーの名は一躍業界に響き渡りました!
態度が悪く仕事を干される
こうしてカトラーは数々の功績を残しましたが、彼の好戦的な態度は社内で問題視されました。
もともとDECの生え抜きではなく、マナーも悪く傲岸不遜。
会議では
"Bureaucracy is the process of turning pure energy into solid waste."
「お役所仕事とはピュアなエネルギーを燃えないゴミに変換するプロセスである」
という言葉が入ったTシャツを着て、あからさまに会社上層部を批判しています。
次第に疎まれるようになり、カトラーのチームはシアトルに飛ばされ、思うように仕事をさせてもらえません。
事実上、干された状態になってしまいました。
そこで、カトラーに目をつけたのが、マイクロソフトの「ビル・ゲイツ」です。
価格は12万ドルで、現代の日本円にして1億5000万円くらいじゃな
これでもPDPシリーズはお求めやすいコンピュータだったんじゃ
でもこう言うのはなんですが…今は聞かない名前ですね
1998年にコンパックに買収され、そのコンパックも2002年にヒューレット・パッカードに吸収された。
ただ、カトラーが作ったVMSは「openVMS」として今も残っておるんじゃ!
新天地マイクロソフトでのOS開発
当時、マイクロソフトはMS-DOSの後継OSをIBMと共同開発していましたが、契約問題などでもめており、独自OSの開発を狙っていました。
堅牢性が高く、マルチユーザー・マルチタスクに対応した高機能な新OSの開発。
そんな困難な仕事を成し遂げられるのは、「カトラーをおいて他にはない!」とビル・ゲイツは感じていました。
1988年、多額のストックオプションを提示されたカトラーは、自分のチームごとマイクロソフトに移籍しました。
後に「Windows NT」と名付けられるOSの開発がここから始まります。
ゆるい「マイクロソフティ」たち
当時のマイクロソフトのエンジニアたちは、自分たちを「マイクロソフティ」と呼び、大学の延長のような自由奔放な雰囲気の中でのびのびと仕事をしていました。
教育体制も整っておらず、いきなり現場に放り込んで「泳げない奴は沈めばいい」が基本方針。
根っからの技術屋からアルバイト感覚の人までいて、個性も技術レベルも出身国までバラバラです。
そこへ、鬼軍曹のようなカトラーが部下を連れて乗り込んできます。
…これは、衝突しないわけがありません。
カトラー吠える!
当初カトラーは、自分のチームだけで開発を行うことを考えていましたが、課せられた仕事の大きさを痛感し、マイクロソフトのエンジニアも動員していきます。
コードを書くプログラマーからテスターやビルドチームまで、適性に応じて人員を配置し、効率的に開発が進むようルール作りをしていきます。
開発メンバーたちには厳しく接し、ルールを守らないプログラマーがいると、「雑草のようになぎ倒してやる!」と怒鳴りつけます。
直接メンバーを殴るようなことはさすがにしませんでしたが、ミスや怠慢を見つけると激昂し、こぶしで壁を殴りつけて指を骨折するという有様。
なりふり構わずチームを引っ張っていく存在でした。
当時は今のように「ウォーターフォール」やら「アジャイル」やらといった開発手法も確立されておらんかったんし、混沌とした現場をまとめ上げるために、カトラーも必死だったんじゃと思うぞ
だが、ただ暴れていただけでは大規模なチームのリーダーは務まらんわけじゃ
持ち前のリーダーシップを発揮し、プロジェクトを進めて行ったんじゃ
「ドッグフードを食う」
カトラーは誰よりも早く来て、一番長く働き、自分でもコードを書きまくりました。
ルールを守るように厳しく言うのも、あくまで全体の進行を滞らせないためです。
多くの人員で分業的に何かを作っていく場合、作業の流れの下流の方にしわ寄せが来るのが常。
OS開発の場合、各パートで作られたプログラムを組み上げる「ビルドチーム」や、組みあがったプログラムをテストしてバグを洗い出す「テストチーム」がもっとも苦労する部署です。
カトラーはビルドチームやテストチームを大事にし、自分でも率先して出来損ないのシステムをテストし、不具合を見つけ出す仕事をしていました。
この作業を「ドッグフードを食う」と表現しています。
地味で泥臭い仕事も率先して行うリーダーの姿を見て、他のメンバーたちも自分の仕事に責任を持っていくようになります。
前人未到のデスマーチ
開発の最中にも市場は変化し、求められる要件も変わっていきました。
移植可能なOSであること、OS/2やDOSのアプリケーションが動くことに加え、開発中にヒットしたWindowsシリーズとの整合性も求められるなど、ハードルはどこまでも上がっていきます。
あまりにプロジェクトが複雑化したことで頓挫することも危ぶまれましたが、難問を一つ一つ解決し、問題がでればまた話し合うといった事を繰り返していきました。
カトラーは事あるごとにチームを激励するメッセージを発し、確実にゴールへと進んでいることを示します。
最終的にビル・ゲイツのゴーサインが出た後も、開発メンバー達はカトラーの叱咤激励に応え、不眠不休でバグと戦い続けました。
開発費用100億円以上、開発期間は実に5年、ソースコードは合計560万行、開発最後の年に修正されたバグは3万以上。
カトラーと開発チームの苦労の果てに、ついに「Windows NT」は完成しました。
じゃが、これにはちょっとした噂があってのう…
カトラーが以前作った「VMS」のアルファベットを一文字ずつズラすとどうなる?
もちろん、マイクロソフトは正式に認めてはいないが、、、
時代を制したWindows NT
1993年、「Windows NT 3.1」が正式にリリースされました。
これ以前にWindows 3.1が発売されており、マーケティングの都合上、最初のバージョンが「3.1」とされました。
発売当初はそのスペックをフル活用できる32ビットアプリケーションが少なかったため、売れ行きは限定的でした。
しかし、32ビットパソコンが主流となるに従い、その評価は上がっていきました。
毎年、バージョンアップを重ね、1996年には「Windows NT 4.0」がリリースされます。
その後、2000年のWindows 2000以降は、「NT」の名は外されていますが、「XP」、「Vista」、「7」などはすべてNTの後継で、Windows 11は「NTのバージョン10.0」にあたります。
一方でMS-DOSの機能拡張から出発した、Windows 9xシリーズは2000年の Windows Me で終了。
現在、圧倒的なシェアを誇るWindows の原点はカトラーたちが作った「NT」だったのです!
同じ「Windows」の名前で出ているからややこしいがな…!
95 の直系は Me までで、その後はWindows NT系に統合されたんじゃ
困難な仕事に情熱を燃やし尽くしたエンジニア
NTの開発が終了した後も、カトラーはマイクロソフトに残りました。
2006年のWindows Vistaまでバージョンアップに携わり続け、2010年のクラウドサービス「Windows Azure」 のリード開発者にも名を連ねています。
また2013年発売の「Xbox One」の開発にも参加し、若い開発者たちに刺激を与えています。
現場にこだわり、どこまでも型破りで、困難な仕事に情熱を燃やし尽くしたエンジニア「デヴィッド・カトラー」。
2022年で80歳になりますが、今もどこかでコードを書いているかもしれません。