「ビデオゲームの父」ノーラン・ブッシュネル
昔って、ゲームセンターでしかゲームできなかったんですよね?
後に「ストリートファイター2」などの世界的ヒット作が生まれたりしたな
ファミコンなどはあったが、ゲームセンターが当たり前だった時代じゃ。
だが、市場を築いたという意味では「ビデオゲームの父」と呼ばれる「ノーラン・ブッシュネル」が1972年にアタリを創業した頃かのう
「アタリショック」で有名な会社ですか?
しかし、今日のゲームの隆盛のきっかけを作った重要な会社で、若き日のスティーブ・ジョブズも所属しておったんじゃぞ
ジョブズ!
コンピュータゲームの誕生と一人の若者の野望
史上初のコンピュータゲームと言われているのは、1962年、マサチューセッツ工科大学で作られた「スペースウォー!」です。
スティーブ・ラッセルを中心とした学生たちがDEC社のミニコンPDP-1上で稼動するゲームを制作しました。
太陽を挟んで対峙する2隻の宇宙船がミサイルで攻撃しあう対戦型のシューティングゲームでした。
このゲームは瞬く間に全米各地の大学のコンピュータに広まり、多くの学生たちを魅了しました。
そんな学生の中の1人に、「ノーラン・ブッシュネル」もいました。
彼がどのようにしてコンピュータゲーム市場を作り上げ、「ビデオゲームの父」と呼ばれるようになったのか見て行きましょう!
ノーラン・ブッシュネルのアタリ創業記
ノーラン・ブッシュネルは1943年、ユタ州ソルトレイクシティに近い町、クリアフィールドで生まれました。
子供の頃はSF・パズル・数学などが好きで、電気工作が得意だったといいます。
1961年にユタ州立大学に入り、後にユタ大学工学部に転入。
そこで「スペースウォー!」に出会い、夢中になります。
近くの遊園地でアルバイトをしていた彼は「これを遊園地に置けば人気になるのでは?」と考えます。
しかし、PDP-1が12万ドルもすることを知り、断念することになります…
アンペックス社で仲間と出会う
1965年大学を卒業した後、世界初のテープレコーダー会社であるアンペックス社に入社します。
ここで、後に共にアタリを創業する「テッド・ダフネイ」や「アラン・アルコーン」と出会います。
1970年、かつては高価だった電子部品が安くなっていることに気づいた彼は「スペースウォー!」のアーケードゲーム版の開発に取り掛かります。
すでに結婚して2人の子供がいましたが、次女を子供部屋から追い出して工作機械を持ち込み、夜な夜なゲーム作りに励みました。
史上初のアーケードゲームを発売するが…
そしてついに史上初のアーケードゲーム「コンピュータースペース」が完成します!
これを市場に投入するため、彼は同僚のテッド・ダフネイやラリー・ブライアンとともにゲーム機メーカーのナッチング・アソシエーツ社に移籍します。
1971年、「コンピュータースペース」を1500台制作しますが、結果は50台しか売れず大惨敗。
敗因はゲームが難しすぎたことです…
大学生には好評だったものの、それ以外の世代にはまったくウケませんでした…。
独立してアタリを設立
しかし、ゲームへの思いをあきらめきれないノーランは、1972年、「ラルフ・ベア」が作った世界初の家庭用ゲーム機「オデッセイ」のプライベートショーを視察します。
「オデッセイ」は、これまでなかった「テレビに繋いで遊ぶことができるゲーム機」で、コントローラーもついており、今日の家庭用ゲーム機の原型です。
ノーランはこれに強く感銘を受け、独立して新会社を設立する決心をしました。
アンペックスからついてきてくれたテッド・ダフネイとともに小さなガレージを借り、そこを事務所兼工作所とします。
社名は好きだった囲碁の用語から「アタリ」としました。
アーケードゲーム「ポン」が大当たり
アタリ創業時、社員はノーランとテッドの2人。
3人目の社員として娘のベビーシッターだった女性を電話番兼受付嬢として雇います。
そして、アンペックス時代の同僚だった技術者、「アラン・アルコーン」を副社長兼エンジニアとして4人目の社員に引き抜きます。
ノーランはアランに、「オデッセイ」で見たテニスゲームを説明し、再現させます。
アランはいとも簡単に作り上げてみせ、ノーランは出来上がったゲーム「ポン」の筐体を設置してくれる場所を捜し、売り込みに成功します。
設置から3日後、「コンピュータースペース」の二の舞はごめんだと祈るような気持ちでいたところ、設置場所のオーナーから苦情が入りました。
「コインが入れられなくなった」との連絡を受け大急ぎで駆け付け、硬貨箱を開いてみたところ、中にはコインがぎっしり。
あまりに多くの人が遊んだため、硬貨箱が満杯になっていました。
「ポン」は大ヒットしたのです!
まあ実際、「ポン」の大ヒットをみた「オデッセイ」の開発者ラルフ・ベアは激おこじゃったな
ノーランは、「参考にはしたが、ポンの方がずっと面白い」と反論しておる
若き日のスティーブ・ジョブズ、アタリに就職
早速、ノーランは「ポン」の増産に入ります。
手持ちの資金で材料を買い集め、組み立てて売り、売って得たお金で材料を買い、また組み立てて売るという自転車操業です。
それでも原価400ドルで作った「ポン」は1200ドルで飛ぶように売れました。
たちまちガレージは手狭になり、となりのガレージも借り、さらに潰れたローラースケート場を借り、そこから最新設備の工場に移転と、9カ月で3回も引っ越しするという急成長を見せます。
人手が足りず、職業安定所に行って、ヒマそうにしている人間を片っ端から雇いました。
それでも人が足りず、求人広告をだすことにしました。
キャッチコピーは「楽しく金を儲けよう」。
こんなコピーで一体どんな人が来るのでしょう?(笑)
この広告を見てやって来た男こそ
なんと、若き日のスティーブ・ジョブズです!
まあ…あのコピーは魅力的と言えますが
やっぱりジョブズはアタリで大活躍したんですか?
問題社員スティーブ・ジョブズ
1974年2月、18歳のジョブズは東洋思想に傾倒しており、インドへ行く旅費を稼ぎたくてアタリの門を叩きました。
「ロビーに汚いヒッピーが来て、雇ってくれるまで帰らないと居座っている」という報告を受け、ノーランはジョブズを面接しました。
ノーランはジョブズが情熱と才能をもっていることを見抜き、40人目の社員として採用します。
入社後のジョブズは長髪でシャワーも浴びず、サンダルで工場内をうろついては、誰彼かまわず尊大な態度で接したため、技術部長のアラン・アルコーンをはじめ、周りからの評判は最悪でした。
あげくの果てに上司のアランに「インドに行きたいから旅費を援助してほしい」と願い出ました。
流石にあきれ果てましたが、ミュンヘンに修理に行くという名目でドイツまでの旅費を出してあげました。
ジョブズは退社し、インドへと向かいました。
何しに入社したんですか?
ジョブズ・リターン
念願のインドへ行き、赤痢にかかってひどい目に合って帰国したジョブズは、1975年初頭、アタリに復帰します。
ノーランは直々に新作ゲーム「ブレイクアウト(ブロックくずし)」の回路の部品削減をジョブズに命じました。
部品を減らした分、報酬を出すと約束されましたが、ジョブズにそんな技術はありません。
当時、スティーブ・ウォズニアックは、親友のジョブズに夜中にこっそりアタリの工場に招き入れてもらいゲームで遊んだり、勝手に回路を改造したりしていました。
ジョブズは彼に「ブレイクアウト」の部品削減を依頼します。
2人の天才
実はノーランは、ジョブズがウォズニアックを招き入れていることを知っていて、彼に泣きつくことも計算済みでした。
「2人のどちらが天才か分かっていた」と言っています。
ウォズニアックは見事な技術で部品を減らしました。
しかし、あまりに複雑な回路は誰にも理解できませんでした。
そこで、ウォズニアックは、少し部品を増やしてわかりやすく修正しました。
ジョブズは報酬700ドルを山分けし半額の350ドルをウォズニアックに渡します。
しかし、ジョブズが受け取った報酬は実は5000ドルでした(笑)
後にこのことがバレ、2人の関係は一時的にギクシャクしたそうです。
みんな大麻を吸いながら仕事をしていて、逮捕者が続出していたそうじゃ
大企業となったアタリとその終焉
1974年には、初の家庭用ゲーム機として、「ポン」の家庭用版「ホーム・ポン」を発売し、こちらも大ヒット。
資本金500ドルで始まったアタリは、翌年には320万ドル以上の売上を記録し、1975年には4,000万ドルに達します。
しかし、アーケードゲーム市場では続々と参入してきた他社にシェアを奪われていきます。
そこで、ROMカセットを差し替えできる家庭用ゲーム機「Atari 2600」の開発に着手しました。
しかし、ハードの研究開発には莫大な費用がかかり、ノーランは資金調達に苦しみます。
ゲーム業界はまだ若い業界なので銀行は冷淡です。
アタリを売却
そこで、自ら出資者を捜していたところ、映画会社のワーナーブラザースの親会社が興味を示しました。
1974年にアタリの株の半分以上をワーナーに売り、経営参加を認めました。
そして、1976年には全株を2800万ドルで売却しました。
このことがアタリとノーランの運命を変えてしまうことになります…
経営方針の違いで衝突
1977年9月、ついに「Atari 2600」が発売されました(発売時の名称は「Atari VCS」)。
しかし、発売当初の売れ行きは芳しくありません。
スピード経営が身上のノーランは、市場に出た技術はすでに過去のものとして、新たなゲーム機を制作しようとします。
しかし、「Atari 2600」のために大金を払ってアタリを買ったワーナーは納得できません。
今のまま「Atari 2600」で勝負しようとするワーナー側の経営陣とノーランは激しく対立することになってしまいます。
ワーナーによるノーラン追放
アタリはとにかく自由な社風で、服装もみな好き勝手で、ジャグジーに入りながら会議をするくらいでした。
しかし、アタリに乗り込んできたワーナーの社員たちはスーツ姿です。
ノーランはゲームを開発するときも自らプレイして質を確認していましたが、ワーナーの役員は誰もゲームをしないタイプの人間です。
対立は悪化し、1978年にノーランは解任され、アタリを追い出されてしまいます…
その後のアタリ
ワーナーは新しいCEOを送り込み「Atari 2600」のテコ入れを試みます。
しかし、思うようにいきません。
売上が上向いたのは、1980年、日本で人気だった「スペースインベーダー」が移植され、これがキラーソフトとなったのがきっかけです。
1980年には200万台の「Atari 2600」が売れ、20億ドルの利益が得られました。
1982年には最大のヒットとなるナムコの「パックマン」が700万本のセールスを記録し、ワーナーの株価もうなぎ上りでした。
しかし、「パックマン」はかなり酷い出来でした。
アメリカの家庭用ゲーム機市場の大崩壊として有名な「アタリショック」が目の前に迫っています。
「アタリ退社後は5年間、競合する業務をしてはならない」という規定に縛られたノーランは、アタリの成長と崩壊を横目で見ているしかなかったのです。
この辺の話も面白いんじゃが、長くなるので、それはまた別のお話しということにしておこう
ノーランとジョブズの交流は続く
ノーランは、アタリの株をワーナーに売った時点で1300万ドルの収入を得て大富豪となりました。
アタリ解任後も、それを元手にピザチェーンやコンピュータ周辺機器メーカーなど20以上の事業を手がけています。
また、スティーブ・ジョブズとはアタリを辞めた後も様々な接点がありました。
「Apple I」の商品化の際、アタリに話が持ち込まれましたが実現はしませんでした。
「5万ドルでAppleの経営に参加しないか?」と持ち掛けられたこともありましたが、ノーランは断ってしまい、後々後悔しています。
しかし、その後もジョブズはノーランに様々な相談をし、助言を受けています。
特に人材登用や組織作りに関してのアドバイスが多く、その内容は「ぼくがジョブズに教えたこと」という本にまとめられています。
もし、アタリにやって来たジョブズをノーランが門前払いしていたら、その後の Apple の躍進はなかったかもしれません。
ウォズニアックも「Apple I」や「Apple II」を設計する際に、「ブレイクアウトの部品削減の経験が役に立った」と語っています。
「ビデオゲームの父」は「Appleの父」でもあるのかもしれません。
確かに「コンピュータスペース」にしろ「ポン」にしろ、完全にオリジナルなものではない。
だが、良いアイデアを発見し、それを利用して新たな市場を作るというのは誰にでもできることではないぞ!
大きなことを成し遂げよ、ミツオカ!