「Excel」と「Word」は同じ人が作った!?
そういえば、昔は「Lotus1-2-3」とか使ってたの~
ハンガリー出身の天才エンジニア、「チャールズ・シモニー」じゃ!
表計算とワープロってジャンルが違うような気がしますが、、、
では、Excel と Word がどうやって市場を制したか見て行くとするかの~!
宇宙へ行ったエンジニア「チャールズ・シモニー」
現在、表計算ソフトと文書作成のデファクトスタンダードである Excel と Word は、ともに1980年代初頭に生まれました。
開発を指揮したのはハンガリー出身のエンジニア、チャールズ・シモニー。
ソフトばかりでなく、WYSIWYG や ハンガリアン表記、メタプログラミングなどの概念やメソッドを生み出し、ソフトウェア開発そのものに多大な影響を与えた人物です。
エンジニアとしてだけではなく、2度の宇宙旅行を果たした事でも知られています。
Excel と Word は優れた操作性と機能性で市場を制していますが、そこに至る道のりは、決して平たんではありませんでした。
それは彼自身の人生も同じです。
チャールズ・シモニーとOfficeソフトがどうやって成功をおさめたのか…
見ていきましょう!
ハンガリーの天才少年
チャールズ・シモニーは、1948年、ハンガリーのブタペストで生まれました。
機械が大好きな少年で、ありとあらゆる機械に興味を示しました
機械をみれば、その仕組みをすべて説明できました。
そんな、大人顔負けの知識を持つ彼は、父親が連れて行ってくれた博覧会でこれまで見たことのないものに出会います。
無数のリレースイッチが詰まったその巨大な箱は「カチカチカチカチ…」と不思議な音を奏でていました。
初期のリレー式コンピュータです。
シモニーはその複雑で神秘的な姿に魅せられます。
宇宙飛行士との出会い
少年時代、コンピュータの他にも大きな出会いをしています。
13歳の時にモスクワを旅行した際、ボストーク4号で宇宙へ行ったパベル・ポポビッチ宇宙飛行士に会ったのです。
宇宙開発は始まったばかりの時代でしたが「いつか自分も宇宙に行きたい」と願うようになりました。
ソ連製のUral2
高校に入るころ、大学教授の父親の口利きでコンピュータに触れる機会を得ます。
当時ハンガリーにあったコンピュータはたったの5台。
大学にあったのはソ連製の「Ural2」でした。
2000本の真空管が詰まった巨大な機械です。
真空管は電源を落とすたびに何本か切れてしまいます。
そのため、毎朝、電源を入れた後は駄目になった真空管を探し出し交換する作業に何時間もかけていました。
そこで彼は無償で夜警の仕事を申し出ます。
電源を入れっぱなしにしておけば、真空管が切れず、翌日すぐに計算を始められます。
彼は誰もいない深夜にコンピュータを使ってプログラミングを始めました。
高校生でコンパイラを作り上げる
当時のコンピュータはOSもなく、何から何まで人間が制御していました。
コンソールに並ぶ無数のスイッチ・ダイヤルを回してプログラミングします。
数字は巨大なレジスターのようなボタンを押し込んで入力します。
そこで「魔方陣(magic square)」を生成するプログラムを組んだりして遊んでいました。
当時は「オクタル・アブソルート」という機械語に近い言語でプログラミングしていましたが、シモニーはこれをより日常語に近い言葉で入力できるソフトウェアを独自に開発します。
いわゆるコンパイラ言語です。
ソフトウェアでお金を稼ぐ
当時、ソ連には Ural2 用の独自の言語があったと思われますが、衛星国のハンガリーには渡していませんでした。
それを一人の高校生が作り上げてしまったのです。
これを聞きつけたアメリカの政府機関が東側のコンピュータの調査のために買いに来ました。
彼は 1万6000フォリントで売ります。
当時の学校の先生の年収分くらいの額です。
これが彼がソフトウェアでお金を稼いだ初めての体験となりました。
よほど嬉しかったのか、その時受け取った現金に対して書いた領収書の写しを、その後も大事に持っていたそうです。
20の部屋がある城を思い浮かべて、そこに10種類ずつのアイテムが置いてある様子をイメージすることで200個の異なる情報を瞬時に記憶したそうじゃ
10桁の数字を一瞬で記憶できるのは2000人に3人と言われておるな…!
デンマークからアメリカへ
それからほどなく、ブダペストで開かれた博覧会にデンマーク製の第二世代コンピュータが出展されます。
熱心に見学するシモニーに興味を抱いた技術者たちは、その知識と技術に驚嘆し、彼をスカウトします。
高校2年生だった彼は3年と4年の試験を受けてパスし、飛び級で卒業してデンマークへと渡ります。
デンマークで第三世代コンピュータに触れ、東側がいかに遅れをとっていたかを痛感しました。
やはりコンピュータの本場で勉強したいと思った彼は、1967年、アメリカへと向かいます。
苦学生だった学生時代
アメリカに渡った彼はカリフォルニア大学バークレー校に入学しますが、学費に苦しむことになります。
パスポートも切れハンガリーに戻ることもできない無国籍の彼は奨学金を受けることもできません。
アメリカの大学は州の住民なら安く通えますが、そうでなければ学費は高額になります。
彼は大学のコンピューターセンターでプログラミングのアルバイトを始めます。
遊ぶ時間はおろか勉強もろくにできない、バイト漬けの毎日でした。
パロアルト研究所へ
しかし、彼の頭脳とプログラマとしての腕は本物でした。
彼に注目したのは計算機科学の准教授「バトラー・ランプソン」です。
後に世界初のGUIベースのパーソナルコンピュータ「Alto」を開発する人物です。
シモニーは彼が設立したバークレー・コンピュータ社に誘われ、入社します。
しかし会社はあっさり倒産。
中心人物たちはゼロックスのパロアルト研究所(PARC)にスカウトされ、シモニーも研究員として働くことになりました。
「Alto」 を作ったバトラー・ランプソンやダグラス・エンゲルバート、「オブジェクト指向」や「ノートパソコン」の概念の提唱者アラン・ケイ、Adobe創業者のチャールズ・ゲシキとジョン・ワーノック…
シモニーさんもそこで活躍するんですか?
パロアルト研究所に失望しマイクロソフトへ
全米から集められた天才が集うPARCは研究開発の環境としては理想的でした。
ここでランプソンたちは、1973年、画期的なコンピュータ「Alto」を開発します。
グラフィカルユーザインタフェース(GUI)をベースにした、マウスを使って操作する初めてのコンピュータでした。
Alto用のワープロソフトを開発
1974年、シモニーはバトラー・ランプソンと共に世界初の WYSIWYGワードプロセッサ「Bravo」を開発します。
WYSIWYG(ウィズウィグ)とは
"What You See Is What You Get”
(見たままが得られる)
の頭文字で、ディスプレイに映し出されるものと、印刷結果を一致させる技術の事です。
当時は画面と印刷物では縦横比が異なることなどから、画面上の物をそのまま印刷するのは難しかったのです。
ただ、これでは文書作成において英文タイプライターより劣ることになってしまいます。
Alto とレーザープリンター、そして Bravo によってはじめてそれと同等のことが実現されました。
WYSIWYGはシモニーの発案であり、後々のソフトウェア開発の必須条件となっていきます。
Altoを理解しないゼロックスの幹部たち
Alto は研究者たちの間では評価が高く、試作機としては異例の2,000台を売り上げています。
PARCの計算機科学研究室の所長、「ロバート・テイラー」は1977年11月、ゼロックスの幹部300人の前でAlto をプレゼンすることになりました。
リゾート地の高級ホテルに「未来のオフィス」のセットを組み、Alto を並べ、集まった幹部の前でこの先オフィスワークがどのように進化するか力説しました。
テイラーはこれで Alto が大量生産されゼロックスが社をあげて販売すると信じていましたが、Alto を初めて見る古参社員たちは誰も触れようとしません。
かわりに Alto を熱心に操作していたのは幹部が同伴してきた妻たちでした。
幹部たちは遠巻きに見ながら「男であんなに早くキーを打てる奴はいないな」とつぶやいていました。
キーパンチャーは女の仕事と見下すだけで、Alto の価値をまったく理解できていませんでした。
後にスティーブ・ジョブズやビル・ゲイツが見学に来て、Alto をマネして Macintosh や Windows が作られていくことになるのが皮肉じゃな…
PARC に見切りをつけて転職活動
シモニーは Alto がお蔵入りになったことで、ゼロックスの幹部たちが明確なビジョンを持っていないことを実感しました。
1980年、多くの研究者たちと同様、シモニーも PARC を去る決意をします。
一足先に退職していたボブ・メカートフに相談し「会うべき人リスト」を作ってもらいました。
そのリストのトップがマイクロソフトの「ビル・ゲイツ」でした。
真っ先にビル・ゲイツに会いに行き、話をしてすぐにマイクロソフトに入ろうと決めます。
ゼロックスの幹部にはビジョンがなく、PARC の技術者にはビジネスセンスがないと思っていました。
ゲイツはその二つを兼ね備えた人物と確信し、残りのキャリアを彼と仕事をすることに決めました。
当時のマイクロソフトは従業員40名程度の会社です。
周囲からはあきれられましたが、それでも自分の直感を信じ、大企業ゼロックスを離れて、ゲイツのもとへ行くことを選んだのです。
表計算ソフトのトップ争い
シモニーとゲイツは、Alto のような GUI を個人レベルで使う時代が来る事を確信していました。
マイクロソフトはすでに言語と OS で実績がありました。
次に征服すべきはアプリケ―ションであり、表計算ソフトとワープロが最重要だと意見が一致します。
1981年1月、ゲイツの正式な勧誘を受け、シモニーはマイクロソフトに移籍。
すでに始まっていた表計算ソフト「マルチプラン」の開発の陣頭指揮を任されます。
まず、追撃すべきは先行する表計算ソフト「ビジカルク」です
世界初のパソコン用表計算ソフト「ビジカルク」
ビジカルクは「ダン・ブルックリン」によって開発され、1979年に発売された表計算ソフトです。
ハーバードビジネススクールの学生だった彼は、課題の企業分析で、売上や費用がどう変化すれば利益がいくらになっていくかの計算をコンピュータにやらせようと考えました。
表計算ソフトがない時代、膨大な計算を電卓を叩いて行っていたのです。
そこで表に数字を入れれば自動的に計算してくれるソフト、ビジカルクを独力で開発しました。
これをAppleⅡ用のソフトとして売り出したところ大ヒット。
まさにそういうソフトを求めていた中小企業の経営者たちがこぞって、AppleⅡとビジカルクを買い求めました。
それまでマニア向けだったパソコンがビジネス用に売れ始めたのです。
まさかの大敗北
ソフトがハードの売れ行きを左右する事を目の当たりにしたゲイツは、ビジカルクを越えるソフトの開発をシモニーに委ねます。
シモニーはビジカルクより使い勝手の良い、GUIを導入した表計算ソフト「マルチプラン」を完成させます。
1982年、見本市でマルチプランは大々的にお披露目されましたが、そこで話題をさらったのは別のソフトでした。
小さなソフトウェア会社が作った表計算ソフト「Lotus 1-2-3」です。
そのソフトがマルチプランの10倍の速度で動くのを見てシモニーは真っ青になりました。
ビジカルクを打ち負かし、表計算ソフト市場を制したのは Lotus 1-2-3 でした…
多くのハードに対応しようとした戦略がアダに
Lotus 1-2-3 は IBM-PC に的をしぼり、アセンブリ言語で書かれていました。
一方、マルチプランはより多くのハードに対応させるため、C言語で書かれ、中間言語も使用していました。
そのため速度の面で圧倒的に負けてしまったのです。
移植しやすい分、Macintosh 版などもリリースできましたが、IBM-PC とその互換機市場はLotus 1-2-3に独占されてしまいます。
それどころかLotus 1-2-3というキラーアプリの存在が、IBM互換機の売上を押し上げたといいます。
「これからはソフトウェアの時代だ」という、ゲイツとシモニーの読みが正しかったことがここでも証明されてしまいました。
シモニーは次なるソフト「Excel」でリベンジを挑みます。
マイクロソフトの命運をかけた戦い
一敗地にまみれたマイクロソフトとシモニーは、マルチプランの処理の遅さ、操作の難しさといった反省を活かし、新たな表計算ソフトの開発に入ります。
マウス対応で複数のワークシートを同時に表示できる、GUI環境に特化したソフトです。
Windows はまだない時代なので、先に Macintosh 版が作られ、1985年9月、「Excel」と名付けられ発売されます。
優れた性能と操作性を持ち、印刷プレビューも実装されたExcel は大ヒット!
ここでも、Excel を使いたい人が Macintosh を買うという現象が起きます。
しかし、IBM 互換機ではまだまだLotus1-2-3 に水をあけられたままでした。
Windows版をリリース
1985年11月にWindows1.0が登場しました。
1987年10月になってようやくExcelのWindows版が出ます。
処理速度と操作性はさらに改善され、Lotus1-2-3やマクロとの相互変換機能が搭載されました。
業界各紙からは「どの機能をとっても、Excelは1-2-3より優れている」と絶賛されます。
大手会計事務所や合衆国労働省がExcelの採用を決めるなど、シェアを広げて行きます。
徐々にライバルの背中が見えてきました。
OSのシェア争い
初期の Windows は MS-DOS の機能拡張にすぎず、OSとしての評価はいまいちでした。
IBM は MS-DOS の後継「OS/2」を1987年にリリースしています。
もちろん、マイクロソフトも協力していますが、ビル・ゲイツとしては独自OSで市場を制したいのが本音です。
次世代OS は OS/2 か Windows かという瀬戸際です。
Windows はバージョンアップをかさね、1992年には Windows3.1 がリリースされ大ヒットとなります。
さらにその裏では新OS、WindowsNT の開発も進められていました。
時代は Windows に傾いていきましたが、Lotus1-2-3 は Windows への対応が遅れます。
Officeソフトの一体的な展開
表計算ソフトとならび重要なワープロソフト「Word」の方もExcel同様苦戦続きでした。
こちらも PARC時代、Bravo を開発したシモニーが陣頭指揮をとり、1983年にMS-DOS用の「Multi-Tool Word」として初登場しました。
しかし、1978年発売の「WordStar」、1986年の「WordPerfect」などが大きなシェアを占め、日本ではワープロソフトといえばジャストシステムの「一太郎」という時代が長く続きました。
1980年代後半には Word の Macintosh 版をリリースし、高い評価を受けます。
1989年6月、Mac向けに Word、Excel、PowerPoint を「Microsoft Office」としてセット展開を開始します。
90年代に入り Windows が徐々に浸透していく中で、他社のソフトたちは対応に遅れをとっていきました。
勝負を決めたWindows95
かつてはハードに依存していたアプリは、OSに依存する時代となっていきました。
ソフトメーカーは、次にどのOSが市場を制するか見極めながら対応していくしかありません。
開発費もそれなりにかかるため、どのOSに対応していくかはある意味賭けです。
しかし、マイクロソフトはそのOSを握り、アプリケーションソフトと一体で展開できます。
圧倒的優位に立った中、1995年、インターネット時代に対応したOS「Windows95」が爆発的なヒットとなります。
「Microsoft office」をバンドルしたWindows PCは売れまくり、圧倒的物量の前にOS対応の遅れた Lotus1-2-3 や一太郎は破れ去っていったのです…
「未来を予測する最善の方法は、それを発明することだ」
チャールズ・シモニー宇宙へ行く
表計算とワープロソフトで世界を制したチャールズ・シモニーはマイクロソフト入社時に与えられたストックオプションで大金持ちになりました。
2022年現在の総資産は56億ドル(約7600億円)と言われています。
マイクロソフトの社員で資産10億ドル以上の「ビリオネア」となったのは、ビルゲイツのほか、ポール・アレン、スティーブ・バルマー、そしてチャールズ・シモニーの4人だけです。
科学技術の発展のため、その資産を多くの団体に寄付しています。
例えば、2008年にはビル・ゲイツとともにチリの NSFヴェラ・C・ルービン天文台の建設に3000万ドル寄付をしています。
自分のためにもそのお金を使い、少年時代から抱いていた宇宙へ行く夢を叶えています。
2007年にロシアの宇宙船ソユーズで、国際宇宙ステーションへの宇宙旅行を果たしました。
さらに2009年には2度目の宇宙旅行を行い、2回の宇宙旅行を経験した初めての人物となりました。
1回目の旅行費は2500万ドル、2回目は3500万ドルだったと言われています。
ちなみに2回目の打ち上げの時は日本人宇宙飛行士の若田光一さんが同乗しています。
2002年、マイクロソフトを退社し、友人とインテンショナルソフトウェアという会社を起こしました。
同社は2017年にマイクロソフトに買収され、古巣にもどりました。
現在もビル・ゲイツと同じワシントン州メディナに大邸宅を構えており、2人の盟友関係は続いているようです。
いくらかかるのかな?
弾丸旅行による無重力を体験旅行なら約1050万円〜3300万円くらいでいけるそうじゃがな
それならいけるかも!!🔥🔥
エンジニアの卵なら、自分で開発すればいいじゃろ…!
(このしゃべる猫じじいを売れば、一発で宇宙旅行費用が捻出できるかも…)
ハッ!まさかミツオカ…!