元祖RPGと言えばドラクエ?いいえ、「ウルティマ」です。
あれよりも前にそんなゲームがあったんですか?
後でオンラインゲームにもなったな
パーティー編成やワープなどのシステム、アバターという言葉も初めて作ったんじゃ
おもしろい人生を送っているから、今日はその話をしよう!
リチャード・ギャリオットのお父さんは宇宙飛行士
「ウルティマ」シリーズの作者、リチャード・ギャリオット・ド・ケイユは、イングランドのケンブリッジで、1961年に生まれました。
父親は宇宙飛行士で工学博士でもあるオーウェン・ギャリオットです。
ギャリオットは、クリアクリーク・ハイスクール入学後に、コンピュータについての勉強をするようになりました。
両親はコンピュータをもっと学んで欲しいと、1977年、ギャリオットをオクラホマ州立大学主催のコンピュータの合宿に参加させます。
ちなみに、イギリス生まれのギャリオットは、「ブリティッシュ」とあだ名で呼ばれるようになる
これを気に入って、「ウルティマ」では「ロード・ブリティシュ」として国王の名前で使っているのだ
コンピュータクラスでゲーム作り
7週間の合宿の間、仲間と「ダンジョンズ&ドラゴンズ」という当時人気のテーブルトークRPGゲームの話をしたり、プログラミングの授業を受けたりしているうちに、RPGゲームに夢中になりました。
そして、作りたくなってしまいました。
合宿から帰ると週末は友人たちとRPGゲームをして楽しみ、ついに自分でゲームを作り始めます。
しかしそれだけでは物足りなくなり、とうとう高校に対してコンピュータクラスの創設依頼を出してしまいます。
願いは叶い、コンピュータクラスが創設。
ただ、教えられる先生がいなかったので、自分たち自身で学習計画を作ることになってしまったわけですが…
高校卒業までに28本にも及ぶダンジョン探検プログラムのゲーム開発をする天才っぷりを発揮しました。
コマンドプロンプトからプログラムを書き、紙テープに出力することができたし、ミニコンピュータと接続して、プログラムを実行できたのだ
初めて販売したゲーム「アカラベース」
ギャリオットは、家でも学校でもゲームを作り続けていました。
そしてPCショップに勤め始めると、店長がギャリオットの作ったRPGゲーム「アカラベース」を評価し、自分の店で販売することを許可してくれました。
次第に「アカラベース」は巷で話題になりました。
そして、カリフォルニア・パシフィックから声が掛かり、全米での販売となったのです。
販売は好調で、1981年までに3万本を売るヒット作となり、ギャリオットのテキサス大学の学費も払っても、まだ余裕があるほどの収益がありました。
テキサス大学に入り、フェイシング部で活動するなどしてキャンパスライフをしばし楽しんだギャリオットですが、「アカラベース」に続くゲームの開発に取り組みます。
タイルグラフィックで作った「ウルティマ」
新しいゲームの開発には、頼もしい助っ人ケン・アーノルドが加わります。
そしてビデオゲームに適した AppleⅡ 用に開発することにしました。
AppleⅡは、キーボード、CPU、メモリーなどセットになっていて、オールインワンタイプのコンピュータとして1971年から個人用に広く販売されていました。
またテレビに接続することでカラー出力もできて、これがビデオゲームのファンを惹きつけるのでした。
ギャリオットとアーノルドの二人で新しいゲームの開発をスタートしますが、グラフィックを取り込むのに苦労しました。
これを解消したのがアーノルドが開発したタイルグラフィックでした。
画面上で表示したいグラフィックをまず方眼紙に描くことにより座標値を出し、コンピュータに入力してデータ保存します。
その後実際に画面上できちんと表示されるか確認しなければなりません。
こうしてできたグラフィックは一つのタイルとなり、他にも多くのパターンタイルを作っていき縦横に並べ、キャラクターや背景を表します。
ピクセル単位で表示されるよりも効率的に表示され、ゲームの世界を自由に行き来する楽しさが加わりました。
こうした苦労の末1981年に「ウルティマ」がついにできました。
ただ、ギャリオットは今までほとんど独学だったし、助かったでしょうね!
広がるウルティマの世界
「ウルティマ」は、不死の宝珠を持つ魔導士モンデインを倒すため、勇者が4つの大陸をまたぎ、クエストを解きながら冒険するゲームです。
異世界へと導き出すストーリーと向上したグラフィックにより、「ウルティマ」はたちまち人気となり、大成功をおさめます。
更に1982年発売の「ウルティマⅡ」も成功し、1983年ギャリオットは親や兄弟と共同で、「オリジン・システムズ」を創立します。
1983年に発売した「ウルティマⅢ」では、パーティー編成や戦闘場面の切り替え、ワープなど今のRPGゲームでも見られるシステムが加えられました。
その後も毎年のように新しいストーリーのウルティマが販売されます。
MMORPGオンラインゲームの世界へ船出
1992年、「オリジン・システムズ」はアメリカの大手ゲームメーカーであるエレクトロニック・アーツの開発部門に入り、「ウルティマ」は1997年、「オンラインウルティマ」として開発され、公開されました。
オンラインのRPGゲームはまだあまりなく、人気の「ウルティマ」がオンラインで遊べると話題となり、ユーザーも増えていき、成功をおさめます。
日本でも1998年日本サーバーでの運用でサービスを開始し、多くの人にプレイされ、影響を与えました。
MMORPGは、ネットを通じて一つの世界に多くの人が集まり、ゲームをしながらコミュニケーションします。
このような本格的なMMORPGで商業的に成功したのはウルティマが「初」と言われるようになるのでした。
しかし、次第に業績は悪化していき、2000年、ギャリオットはエレトロニック・アーツを解任されてしまいました。
「ウルティマIX」の日本語版ではギャリオット自身が吹き替えをしていたりするぞ
それは今となったらお宝版とも言えますね!
NcSoftでのゲーム開発
その後ギャリオットは、兄のロバートと「ウルティマオンライン」でメインプログラマーだったスタリー・ロングと新しい会社「Destination Games」を設立し再始動します。
しかし、長く続かず2001年には早くも韓国のゲーム会社「NcSoft」に買収されてしまいました。
買収後もギャリオットはNcSoftでゲーム開発を続け、2007年には「Tabula Rasa」を発表したのですが、翌年突然 NcSoft を退社。
それはギャリオットが人生の転機となる体験をしたからでした。
「冒険家」になったギャリオット
NcSoft を退社する前に民間宇宙飛行士として、ギャリオットは宇宙を旅しました。
ギャリオットは深い感銘を受け、新しいことに挑戦したくなったのです。
それからのギャリオットは世界中を旅する冒険家となり、アマゾンのジャングルに行ったり海の最深部まで潜ったりするようになりました。
また民間向けの宇宙飛行会社「スペースアドベンチャーズ」を共同設立して、民間人が宇宙へ飛行する手配をしています。
NASA諮問委員会の委員など宇宙に関する職務にもいくつかついて、リーダー的な役割を担うようにもなりました。
ギャリオットは冒険ゲーム作りに熱中した日々から、宇宙へ情熱を傾け、現実の冒険を楽しむ「今」を生きています。
ギャリオットは父のようにいつか行ってみたい気持ちがあったのかもしれんな
ウルティマのような壮大なゲームを創れたのも納得です。
よし、わしも冒険に出かけたくなってきたわい…
今作ってるアプリの作成(冒険)じゃな
ミツオカも新米エンジニアなら、その冒険は必須じゃろ!