コンピュータを脅かすプログラム
すぐに、「ジョン・マカフィー」や「ユージン・カスペルスキー」によってウィルス対策ソフトも生まれておる
マカフィーとかカスペルスキーって人の名前だったんですね
特にジョン・マカフィーは2021年に75歳で亡くなった時、結構なニュースになっておったな
マルウェアに対抗するソフトを作った男
1980年代後半に広がり始めた「コンピュータウィルス」。
1990年には357種類だけだったマルウェアは、1995年には8069種類、2000年には5万6342種類と、今でもその数を増やし続けています。
初期のウイルスはフロッピーディスクなどを介して広がっていました。
しかし現在では、ほぼすべてのコンピュータがネットに常時接続されているため、その感染スピードはかつてとは比べ物になりません。
現在では、ウィルス対策もオンライン化され、次々と現れる新種に対応するため日々定義ファイルが更新されています。
初めてビジネス化したのがマカフィー
こうしたウィルス対策ソフトを初めてビジネスにしたのが1987年創設の「マカフィー・アソシエーツ(現マカフィー)」です。
現在でもウィルス対策ソフトのトップ企業として君臨していますが、その創業者が初期のウィルス対策ソフト開発者「ジョン・マカフィー」。
酒とドラッグと銃を好み、暗号資産で多くの人を翻弄し、果ては大統領を目指すなど、破天荒なキャラクターで知られています。
彼がどのように時代を作り、時代に翻弄されたか見ていきましょう!
暴力におびえた少年時代
ジョン・マカフィーは1945年、イングランドの南西部、グロースターシャーで生まれました。
幼少期に両親とともにアメリカのバージニア州に移住します。
父親は測量士をしていましたが、重度のアルコール中毒で家族に対しひどい暴力をふるっていたといいます。
そして彼が15歳の時、ショットガンで自害してしまいます。
父の暴力に怯えながら暮らし、その死を目の当たりにしたことは、彼の人生に暗い影を落とします。
雑誌の定期購読で生計を立てていた大学時代
成長した彼はバージニア州のロアノーク大学に入学しました。
この頃は雑誌の定期購読をとる仕事で生計をたてていました。
家々を回り「あなたは無料購読に当選したので、ちょっと送料を払うだけで雑誌が読めます」と微笑みながら告げ、言葉巧みに有料の契約をとってまわりました。
この時、彼は自信に満ちた態度がものを言うことを学びます。
そうやって稼いでは、父親同様、酒浸りの日々を送っていましたが、頭脳は明晰で1967年には博士号を取得します。
酒とドラッグに溺れる日々
大学を卒業後、テネシー州ブリストルにあるユニヴァックでプログラマーとして働いていました。
しかし、ドラッグ関係の罪で逮捕され、有罪こそ免れたものの、会社をクビになってしまいます。
彼は、偽の履歴書をつくり上げ、セントルイスにあるミズーリ・パシフィック鉄道に就職します。
同社では、当時はまだ珍しかったIBMのコンピュータを導入を導入したばかりでした。
マカフィーはそこで、わずか半年で運行管理システムを組み上げます。
エンジニアとして高い能力を発揮しましたが、そこでも ドラッグにまみれて仕事をする毎日でした。
ある日、新手のドラッグを一袋丸ごと吸ってしまい、意識が朦朧としたままセントルイスの街をさまよい歩き、二度とミズーリ・パシフィック鉄道には戻りませんでした。
ドラッグとの決別
その後も、毎朝デスクでドラッグを使用し、スコッチを1瓶空ける日々を送っていました。
自分もいつか父親のようになってしまうのではないかと怯えながら暮らしていました。
彼はセラピストのところへ行き、アルコール依存症患者の自助更生会に行くよう勧められます。
会に参加した彼はむせび泣きました。
そこで参加者のひとりが彼を抱きしめ「独りじゃないんだよ」と言ってくれました。
この出来事により、ようやく彼は目を覚ましドラッグを断つことができたのです。
そしてエンジニアとしての腕は一流だったマカフィーは、NASAやゼロックス、ロッキードなど一流企業をわたり歩いていくことになります。
ある脅威が世間で話題となったんじゃ
まだ「コンピュータウィルス」というものが世間に知られていない時代じゃが、マカフィーはこれに強い興味を抱いたんじゃ!
マルウェアの歴史
1971年、インターネットの前身であるARPANET上に「The Creeper(クリーパー)」というワームが拡散しました。
画面上に、
"I'm the creeper, catch me if you can!"
(俺はクリーパー、捕まえられるものなら捕まえてみろ!)
と表示されるだけのもので、いわゆるジョークプログラムです。
プログラムが自己複製できるかどうかという実験で作られたものですが、これが史上初の「コンピュータウィルス」と言われています。
1970年代には初期の「トロイの木馬」型マルウェア「ANIMAL」や、初の自己複製の機能を持った悪意のあるコンピューターウィルス「Rabbit」などが登場します。
これらはメインフレームという大型コンピュータ上で動くプログラムでした。
ウィルスの時代の幕開け
1983年、南カリフォルニア大学の学生「フレッド・コーヘン」がUNIX上で動くウィルスを作りあげました。
翌年、「Experiments with Computer Viruses(コンピュータウィルスの実験)」という論文を発表します。
「ウィルス」という言葉は彼の指導教授レオナルド・エーデルマンが考案したといわれていますが、この論文により、コンピュータウィルスという言葉と概念が、広まり始めます。
“最初のコンピュータウィルス”「Brain」
1980年代はパソコンの時代となり、職場や自宅でコンピュータが使われるようになりました。
それまでは研究目的で作られていましたが、「野生のウィルス」が現れ始めます。
1986年、アメリカで「Brain」と呼ばれるウィルスが大量に発見されます。
作ったのはパキスタンのラホールで小さなコンピュータ会社を経営していたアルビ兄弟です。
BrainはDOSで稼働する初のブートセクタウィルスでした。
もともとは不正にソフトをコピーしたユーザーに警告メッセージを発するだけの比較的無害な物でした。
メッセージには会社名、連絡先が表示され、ウィルスに注意し、ワクチン接種が必要な場合は会社へ連絡するように書かれていた。
つまり自らウィルスと名乗っていたのです。
しかし、これが感染と増殖を重ねるうちに、有害なウィルスに改変され全米に蔓延します。
それだけ不正コピーが横行していたということでもあるため、大手の新聞にも取り上げられ、一般の人々にも脅威が知られた"最初のコンピュータウィルス"となります。
他にも単独で存在できるものを「ワーム」、待ち伏せ型を「トロイの木馬」、そしてそれらの複合タイプなど、みんなマルウェアじゃな
ウィルス対策ソフトを開発し巨万の富を得る
Brainが猛威をふるい、アメリカ中が大騒ぎになっているのを見て、マカフィーは行動を起こそうと考えます。
当時、多くの人たちは何が起こっているかすらわかりませんでした。
まったく無防備な人々が理不尽な攻撃にさらされている。
マカフィーにとってはそれは、幼少時代、父親に理由もなく殴られ、何もやり返せなかったことと重なりました。
即座に知り合いのプログラマに電話をかけ「何かしなければならない。このウィルスに対抗するコードを書きたいんだ!」と叫びました。
そして、ウィルス対策プログラムを組み上げます。
当時はまだインターネットのない時代でしたが、彼はその前身である「BBS」を運営していました。
そこで、彼は自分が作ったウィルス対策ソフトの配布を始めました。
ウィルスの脅威を世界に知らしめる
1987年、アンチウィルス企業「マカフィー・アソシエーツ」を設立します。
会社を立ち上げてすぐに全長8mのモーターホーム(大型キャンピングカー)を買いました。
そこにコンピュータを積み込み、世界初の「ウィルス対策救急隊」を結成します。
コンピュータに問題が発生しているとの連絡を受けると、モーターホームで駆け付け、ウィルスを駆除します。
訪問販売員だった経験を活かし、真実味のあるトーンで、ウィルスの恐ろしさを説いて回りました。
彼の行動は話題となり、マスコミで取り上げられTVにも出演します。
人々にコンピュータウィルスの脅威を知らしめるための本も書きました。
そこには「現実があまりに深刻な事態なので、ことさら強調することもできない」とありました。
会社は急成長
もともとウィルス対策ソフトにユーザーが対価を払うとは思っていなかったので、BBSではシェアウェアとして公開していました。
しかし彼は善意のみでこの活動を行っていたのではありません。
対策ソフトの重要性をユーザーが認識し、企業が導入していくことを狙っていたのです。
目論見通り、5年で『フォーチュン』誌のトップ100企業の半数がマカフィー製のソフトを導入するようになり、ライセンス料を支払うのもいとわなくなって行きました。
ウィルスへの恐怖感が浸透するに従い、売上は伸びていき、1990年までに年間500万ドルも稼ぎ出すようになります。
こうして「マカフィー」はウィルス対策ソフトの代名詞となっていきます。
広がるウィルスの脅威
90年代初頭には様々なウィルスが発見されます。
特に話題になったのは1992年の「ミケランジェロウィルス」です。
ハードディスクに潜伏し、毎年、3月6日に起動してコンピュータを使えなくするウィルスです。
3月6日がミケランジェロの誕生日ということからこの名がつけられました。
このウィルスは世間を大いに騒がせ、マカフィー製の対策ソフトも驚異的な売れ行きを見せます。
1992年10月、「マカフィー・アソシエイツ」はナスダックに上場し、マカフィーの持ち株は一夜にして8,000万ドルの価値になりました。
しかし、1994年、彼は全株式を売却し、会社を去ってしまいます。
この時、1億ドルを手にしたと言われています。
そこで、悪意のあるプログラムが勝手にコンピュータに入り込むなど、ワケが分からなかったんじゃろうな…
破天荒なマカフィーの後半生
自ら立ち上げた会社をあっさり手放したマカフィーは、そこで得た大金を元手に様々なことに挑戦します。
会社をやめてすぐに立ち上げた会社「Tribal Voice」で開発した「PowWow」は、 Windows用の最初のインスタントメッセージソフトです。
今日の主要なチャットプログラムで採用されている多くの機能を初めて実装した革新的なソフトでした。
さらにはファイアウォールソフトウェアの会社に投資するなど、得意のセキュリティ分野でも仕事をしています。
また、超軽量飛行機の販売事業に投資するなど、テクノロジーの分野以外にも手を広げます。
このころは学校にコンピュータを寄贈したり、薬物使用防止の新聞広告を打ったりと模範的な市民でした。
大半の資産を失いベリーズに移住
2000年代後半、金融危機が訪れると、1億ドル以上あった資産は400万ドルまで減ってしまいます。
長年、コンピュータ業界の最前線で仕事を続けてきたことに疲れを感じ、2008年、ベリーズに移住します。
ベリーズは、中央アメリカ北東部、ユカタン半島の付け根に位置する国。
主な産業は農業で、国土の大半がジャングルという国です。
この国で土地を買い、家を建てて暮らし始めます。
殺人容疑に問われる
資産の大半を失ったとはいえ、物価の安い国です。
ここで彼は、映画『地獄の黙示録』のカーツ大佐のように王国を築きます。
次第に偏執病的な気質が現れはじめ、「自警団」を自称し、ガードマンを雇って銃を大量に買い込みました。
広大な土地に謎めいた「ラボ」を建て、多くの犬を飼い、銃を振り回しては絶えずトラブルを起こしていました。
2011年には隣家の住人が銃で撃たれ、死んでいるのが見つかり、殺人容疑をかけられます。
被害者とは過去にもトラブルを起こしており、状況証拠はすべて彼を犯人だと示唆していました。
警察がやってくるのを知った彼は、段ボール箱を頭にかぶり、砂に埋まってやり過ごします。
その後、20歳の恋人とベリーズ国内を3週間にわたって逃亡。
逃亡中に雑誌のインタビューを受け、ネットにアップした写真のジオタグから、グアテマラにいるのがバレてしまい、逮捕されアメリカに送還されました。
暗号通貨
アメリカに戻った彼は、また、テクノロジーの世界に戻ります。
折しも暗号通貨が広まり始めた頃でした。
彼は国が介入しない暗号通貨の仕組みと、そのセキュリティの堅牢性を気に入り、多くの通貨に投資しました。
ビットコインが値上がりすることを予言し、ブロックチェーンの最初の論文を書いたサトシ・ナカモトの正体を知っていると吹聴します。
その道のカリスマとして、特定の通貨の買い煽り、値を釣り上げては売り抜けるということを繰り返し、莫大な利益をあげました。
大統領選に立候補
そして、2016年の大統領選挙の際はリバタリアン党から立候補を画策します。
「税は悪」という彼の考え方は、規制や徴税の廃止を訴えるリバタリアン党の政策と一致していました。
大統領候補にはなれませんでしたが、予備選挙では2位となっています。
脱税容疑で国外逃亡
2020年の選挙にも、懲りずに立候補しようとします。
しかし、暗号通貨で儲けていたにも関わらず、確定申告しない彼は、IRS(内国歳入庁)のターゲットとなりました。
脱税の罪で起訴されましたが、マカフィーはすでに75歳。
捕まって有罪になれば事実上の終身刑となります。
彼は逮捕を恐れスペインへ逃亡します。
2021年、米国司法省の脱税の要請によりスペイン当局に身柄を拘束され、収監されます。
独房で生涯を終える
アメリカ本国への送還直前の2021年6月23日、独房で自害しているのが発見されました。
収監されてからもツイッターで発信しており、最初は争う構えを見せていました。
しかし、死の直前のツイートからは彼の孤独と矜持がにじみ出ています。
隠し財産があればうれしいが、マカフィーチームの多くの人の手にわたってなくなった(信じてもらう必要はない)。
残りの財産はすべて押収された。
関わり合うのを恐れて友人もいなくなった。
もう何も残っていない。
しかし悔いはない
父親の暴力におびえていた少年は、父親と同様の最後を遂げ、この物語は終焉します。
マルウェアにでも感染したのか!?
マカフィーの一番高いウィルス対策ソフト買ってくるのでお小遣いください!