MS-DOS以前のOS
1980年代は「キューハチ」ことNECのPC-9801に5インチのフロッピーディスクをぶち込んで起動しとったんじゃ。
「MS-DOS」以外にも初期のころは「CP/M-86」とかもあったがのう
MS-DOS以前の覇権OSといってもいいくらいじゃぞ
初めて聞きました!
この方はいろいろ不運なところもあって、今ではあまり語られることもなくなってしまったがのう…
じゃあパソコン…いや、そう呼ばれる前の「マイコン」のはじまりから話をしてみるかのう!
「マイコン」の発明とオペレーションシステム
家庭用のコンピュータの歴史は1971年、インテルが世界初のマイクロプロセッサ「4004」を開発したことに始まります。
当時の一般的なコンピュータは冷蔵庫くらいの大きさで、安くても1万ドルで、現代の日本円にして1000万円くらいです。
マイクロプロセッサを使ったコンピュータは「マイクロコンピュータ(マイコン)」と呼ばれ、一般の人にも買える価格になりました。
最初のマイコンは組み立て式で、それなりに知識も必要でしたが、最新のテクノロジーにひかれた人々が趣味としてプログラミングを始めていました。
そんなマイコンにいち早く携わり、初めてのマイコン用OS「CP/M(シーピーエム)」を開発したのが「ゲイリー・キルドール」です。
CP/M は、1970年代の8ビットコンピュータのOSとして広く普及しました。
しかし、1980年代の覇権 OSはマイクロソフトの「MS-DOS」であったことが良く知られています。
この間に一体なにがあったのでしょう?
キルドールと CP/M をめぐる、OS の歴史的な転換点を詳しく見ていきましょう!
キルドールとコンピュータの出会い
ゲイリー・キルドールは1942年5月19日、ワシントン州シアトルで生まれました。
父親のジョセフはノルウェー人を祖先に持つ船乗りで、祖父が設立した海洋学校「キルドール航海術カレッジ」を家族で経営していました。
キルドールは高校卒業後の1960年から62年まで、その学校で教鞭を執っていました。
しかし、高校時代のガールフレンドであったドロシー・マキューエンとの結婚後、一念発起して、数学教師を目指します。
ワシントン州立大学の数学科に入学し、1967年に卒業しています。
大学では初めてコンピューター科学学科が開設された時期で、キルドールはその最初の学生でした。
当時、大学に導入されていたコンピュータはバロースの「B5500」。
アルゴリズム言語「ALGOL 60」向けに最適化された大型コンピュータです。
自分のプログラミングの才能に気づいたキルドールは、夜間を使ってB5500でコードを書くことに熱中しました。
海軍大学校へ
ただ、当時はベトナム戦争の真っ最中。
1965年からアメリカも本格的に参戦します。
キルドールは徴兵されて戦地に行かされるくらいならと、自ら米海軍の幹部候補生学校に入学。
さらに米海軍大学校でコンピュータ科学の准教授として教鞭をとりました。
世界初のマイクロプロセッサの登場
1971年、「インテル」が世界初のマイクロプロセッサ「4004」を開発します。
4004は、元々、日本の電卓メーカー「ビジコン」がインテルに発注して作られたものです。
当時は電卓が小型化しつつある時代です。
その心臓部であるLSIは、通常、電卓の種類ごとにカスタムされていました。
機能が高度化するほどチップの構成も複雑化し、機種ごとに種類も増えていきます。
そこで、ビジコンの技術者、嶋正利氏はプログラム制御によって必要な機能を実現するLSIの開発をインテルに要望します。
しかし、インテルは当時、別の大きな開発案件を抱えていたことなどもあり遅々として進みません。
結局、嶋氏自身がインテルに乗り込み、自ら理論設計を行って 4004 は完成しました。
世界初のワンチップコンピュータ
4004は数字しか扱えなかったものの、小さいながら「コンピュータ」と言えるものでした。
インテルはその汎用性に気づき、当初はビジコンへの専売とされていましたが、契約金の一部を返還し、一般発売に踏み切りました。
1972年のある日、キルドールは海軍大学校の掲示板で、このようなインテルの 4004 の広告を見ました。
チップ上のコンピュータ――25ドル
コンピュータが25ドル?
キルドールは大きな興味を持ち、早速 4004 を購入しました。
インテルのコンサルタントに
当時手掛けていた航海時に必要な計算を行うシステムが、4004を使えば安く作れると閃めきました。
キルドールはインテルから送られてきたマニュアルを見ながら、いくつかのプログラムを書きます。
インテルのオフィスが近かったので顔を出すようになり、インテル側も彼の才能に気づきます。
彼が書いたプログラムを提供してもらうのと引き換えに 4004 の開発キットの試作品を貸出しました。
キルドールは大学の仕事の傍ら、土日にはインテルのコンサルタントとして、マイクロプロセッサの仕事にのめりこんでいきます。
嶋氏はビジコンからインテルに移籍し、アルファベットも扱える8ビットの「8008」や、さらに高速化された「8080」の設計をおこないました。
インテルは8008や8080のシステムも貸出し、キルドールは1973年、世界初のマイクロプロセッサ用高水準言語「PL/M」を開発します。
「半導体回路の集積密度は2年で2倍となる」というやつじゃな!
逆に言えば、現代の100万分の一の能力のマイクロプロセッサでプログラミングしていたっていうのもすごい話ですね
マイクロコンピュータの時代の到来
初期のコンピュータは部屋を埋めつくすくらいの巨大な物でした。
大型コンピュータは「メインフレーム」と呼ばれ、主に軍や政府施設、大学などに導入されました。
IBMが市場をリードしていましたが、1960年前後からDEC社などが冷蔵庫くらいのサイズの「ミニコンピュータ」を発売します。
ミニコンにより一般の企業へも導入が進みますが、まだ個人でコンピュータを持てる時代ではありませんでした。
大人のホビーだった「マイコン」
1974年12月に発売されたMITS社の「アルテア 8800」はインテル8080を使った組み立て式マイコンキットで価格は400ドル。
DECのミニコン「PDP-11」でも1万ドルした時代です。
もちろん、性能は比べ物になりませんが、個人のコンピュータマニアにも充分手が届きます。
破格の安さと拡張性で、最初の2〜3週間で4,000台を売り上げる大ヒットとなりました。
1975年に100万ドル、1976年に1300万ドルの売り上げを記録します。
ホビーとしてのマイクロコンピュータは大きなブームとなり、各社から様々な「マイコン」が発売されました。
うまく命令文を入力できるとランプが光る
テレタイプ端末やプリンターが接続でき、穿孔テープでプログラムを読み込ませ、プリンターをモニター代わりにしてゲームのプログラムを作ったりするのが流行っておった!
今じゃ考えられない…
マイコン向けOSの開発
キルドールは PL/M と同時に動作環境としてのOS「CP/M」を開発していました。
インテルにデモンストレーションを行いましたが、興味を示されなかったため、自ら販売することにしました。
1976年、妻とふたりで「デジタルリサーチ社」を起業し、8080およびZ80をベースとしたマイコン向けのOSとしてCP/Mを発売します。
ちなみに「Z80」は嶋正利氏とインテルのスタッフが独立して作られた会社「ザイログ」から発売された8ビットマイクロプロセッサです。
「Z80」は嶋氏が設計し、こちらも大ヒットしましたが、なんと現在も生産されています。
互換性の高かったCP/M
CP/Mは「Control Program for Microcomputers」の略で、文字通りマイクロコンピュータを制御するOSです。
フロッピーディスクから供給される「DOS(ディスクオペレーションシステム)」ですが、当時は周辺機器の構成も統一されていませんでした。
OS を移植するには、ハードに合わせて入出力のプログラムを書き直さなければなりません。
そこで周辺機器を制御する部分を分離し、そこだけを書きかえることで、様々な機種に対応できる方式を考え出します。
この部分を「BIOS(Basic Input Output System)」と名づけました。
これは今日のパソコンでも標準的に使われている機能です。
CP/M はこの互換性の高さから、多くの機種に採用されていきます。
一説によれば、CP/M に対応したマイコンは3000機種を超えていたと言われています。
そのため、多くのソフトも CP/M 上で動かすことを前提に開発され、対応ソフトが多いことでさらに普及していきました。
こうして CP/M は8ビットマイクロコンピュータOSのデファクトスタンダードになりました。
運命を変えたIBMとの交渉
1980年、コンピュータ界の巨人「IBM」は焦っていました。
大型コンピュータ市場では圧倒的なシェアを持っていましたが、ホームコンピュータの分野では1977年に発売されたアップルの「Apple II」が市場を席巻していました。
巻き返しのため、パソコン市場への参入を画策しますが、そのノウハウがありません。
そこですべて自社開発をするのはあきらめ、スピードを優先します。
CPUは16ビットのインテルの「8088」を採用し、他の部品も大部分は外部調達することにしました。
問題はソフトです。
16ビット用のOSの調達を命じられたIBMの主任交渉者の「ジャック・サムズ」はビル・ゲイツに相談します。
まだ小さな会社だったマイクロソフト
ビル・ゲイツは当時25歳。
大学時代、19歳でマイクロソフトを立ち上げ、様々なマイコン向けのBASICの開発と販売で成功し、IBMとも取引がありました。
しかし、1980年時点ではマイクロソフトはまだ社員数約50名という規模です。
IBMの方が圧倒的に大企業であり、ゲイツはサムズに求められるまま秘密保持契約の書類にサインし、交渉に入ります。
しかしIBMが求めているのがOSだと知り、それならばとデジタルリサーチを紹介します。
当時はCP/Mも売っていましたから、デジタルリサーチとも付き合いがありました。
キルドールに電話しましたが本人は不在で「明日とても大事な顧客が訪ねていくから対応してほしい」と伝えるよう、秘書に依頼しました。
相手が IBM であるとは言いませんでした。
IBMとデジタルリサーチの交渉
IBM の担当者がデジタルリサーチを訪問した時、キルドールは不在でした。
代わりに妻のドロシーが対応しますが、彼女は秘密保持契約へのサインを拒みます。
それでは、話が進められないと押し問答となりましたが、結局この日はなんの進展もなく終わりました。
キルドールは、仕事人間ではなく、CP/M の売り上げでスポーツカー10台以上、自家用ジェットも所有していました。
アポイントが取れないのことでも有名です。
この日も、別の取引のために、自ら自家用ジェットを操縦して、サンノゼへ出張していました。
その後も IBM はなんとかキルドールと交渉しようとし、自宅も尋ねましたが、なかなか会えません。
何度も交渉が重ねられましたが、IBM側が25万ドルでCP/Mを買い取りたいと申し出たのに対し、キルドール側が1コピー10ドルのライセンス料を要求し、条件が折り合わなかったと言われています。
いずれにせよ交渉は難航し、IBM は CP/M の調達をあきらめかけていました。
例えばIBMが「実はこういうビジネスを考えているんだ」と話したとして、同じことを自分たちが考えていたのでIBMとは無関係にそのビジネスを始めた場合、「パクっただろ」と訴えられるんじゃ
それなら話をするだけでもリスクがありますね
キルドールは「午後には帰ってきてバカンスへ向かう飛行機の中で、ジャック・サムズ氏との合意に至った」と言っている
一方、サムズは「キルドールとは一度も直接会えなかった」と証言している
OSが手に入らず困り果てるIBM
IBMとしては一刻も早く16ビット用のOSが欲しいのに、思うように行きません。
サムズは困り顔で、マイクロソフトに再びやって来て、「デジタルリサーチは、どうもIBMと商売をする気がないようだ」と告げます。
この事態に、ビル・ゲイツは千載一遇のチャンスがやってきたことを知ります。
デジタルリサーチの代わりにIBM-PCにOSを供給出来ればビッグビジネスになる!
しかし、マイクロソフトはOSを作っていません。
IBMが提示した期間は3か月。
そんな短期間で新OSを作ることはできません。
そこで、IBMの条件にあうOSを探しました。
ティム・パターソンの「QDOS」
目的に叶うOSがマイクロソフトと同じシアトルにある小さなソフトメーカーにありました。
マイクロソフトとも取引のある、シアトル・コンピュータ・プロダクツ社の「ティム・パターソン」が作った「QDOS」です。
もともとティム・パターソンはインテルの8086を使ったハードウェアを設計していました。
8086は16ビットなので8ビット用のCP/Mは動きません。
デジタルリサーチが16ビット用のCP/Mを開発してくれるのを待っていましたが、一向に出てくる気配がしません。
そこでパターソンはCP/Mのマニュアルを片手に、8086上で同じように動作するOSを自ら開発し始めます。
わずか4か月で作ったので「急場しのぎのOS」という意味で、自虐的に「QDOS(Quick and Dirty Operating System)」と名づけましたが、後に「86-DOS」と改名しています。
マイクロソフトのポール・アレンはこのOSに目を付けます。
マイクロソフト四人衆
当時のマイクロソフトの経営には4人の中心人物がいました。
ひとりはもちろん創業者ビル・ゲイツ。
共同創業者のポール・アレンはゲイツの高校時代の友人で、ともにBASICを作った盟友です。
さらにゲイツとハーバード大学時代、学生寮で同室だったスティーブ・バルマーはマイクロソフト初の経営人材としてフォード自動車から引き抜かれてきたばかりでした。
そして、もう一人が西和彦氏。
西氏はパソコン雑誌「アスキー」を立ち上げた編集長で、ビル・ゲイツと意気投合し、マイクロソフト製品の日本での販売を請け負っていました。
当時のマイクロソフトの売上の40%は日本で西氏がBASICを売って稼いでいました。
ここでも重要な役割を果たします。
その後、ビル・ゲイツと仲たがいしてしまったのじゃ…
1980年9月28日
この日の夜、4人はオールドナショナル銀行のビルの8階の隅にあるゲイツの部屋に集まり、話し合いました。
このOSの件にコミットすべきかどうか。
IBMは官僚的な気質で納期に厳しいことで有名です。
すでにIBM-PCへのBASICの移植の仕事も受けています。
そのうえ、「QDOS」を買い取ってIBM-PC用に改良することが、はたして3か月でできるのか。
それに買い取ったものを「ペンキを塗り替えて」IBMに売るというのもいかがなものか?
議論が堂々巡りする中で西氏が叫びました。
このチャンスを絶対に逃すべきじゃない。IBMを踏み台にして大きくなるんだ。なんとしてもやるんだ
決然と言い放つ西氏でしたが、ゲイツとアレンには、86-DOSというベースがあるとはいえ短期間で仕上げられるかどうかという懸念がありました。
西氏は続けて言います。
零戦だって3度作り直している。取りあえずそれで作っておいて、何度でも作りなおせばいいじゃないか
西氏の勢いに押され、ゲイツたちは覚悟を決めました。
MS-DOSの誕生
ポール・アレンは早速シアトル・コンピュータ・プロダクツに向かい、「86-DOS」を25,000ドルで買い取る交渉をまとめました。
この時、顧客がIBMであるということは告げていません。
マイクロソフトは「86-DOS」をIBM-PC向けに改良を加えました。
IBMはマイクロソフトの提案を受け入れ、このOSを採用します。
「PC-DOS」と名づけられ、IBM-PCの標準ソフトとしてハードと同時発売することとなりました。
この契約の際、マイクロソフトは買い取りを避け、IBM PCの出荷台数に対して使用料を支払うライセンス契約とすることに成功します。
マイクロソフトから別のメーカーへの自由をOS供給することを認めさせ、そちらは「MS-DOS」という名前で販売されました。
これが、今日まで続くマイクロソフト大躍進の決定的要因となりました。
一方キルドールはビジネスより人生を楽しみたいタイプで、IBM相手でも態度を変えておらんかったらしいぞ
OSの覇権の行方は・・・
シアトル・コンピュータ・プロダクツは後になって、自分たちのOSがIBMに転売されることを知りました。
取引相手がIBMと分かっていれば、あんなに安い値段で売らなかったと怒り、マイクロソフトを訴えます。
それに対しポール・アレンは「IBMと秘密保持契約を結んでいたから言えなかった」と主張します。
契約上は確かにその通りなのですが、最終的にマイクロソフト側が100万ドルを支払う形で和解しました。
一方、開発者ティム・パターソンはマイクロソフトに引き抜かれ、「86-DOS」の改良に携わっています。
キルドールの怒り
キルドールはマイクロソフトがOSを供給しようとしているという話を聞き、「PC-DOS」を手に入れて中身を見たところ激怒します。
明らかにCP/Mのソースコードを使用していると結論づけました。
ティム・パターソンに「CP/Mを盗んだだろう」と詰め寄ります。
その主張に対し、ティム・パターソンは「マニュアルを見ながら同じ機能を実現するように作っただけで、ソースコードは流用していない」と反論しています。
いずれにせよ、すでに相手はIBMという巨大企業になってしまっています。
裁判でIBMの法務部と争うのは得策ではないということで、16ビットOS「CP/M-86」を制作し、これをIBM-PCのオプションで販売するという条件で妥協します。
まだ、IBM-PCが成功するかも分かっていない状況でしたし、キルドールもそれで納得しました。
IBM-PCの大ヒットとOSの覇権
1981年8月12日、IBM-PCは大々的に発売されました。
これまで市場をリードしてきた「Apple II」は趣味のパソコンといイメージで売っていました。
それに対し、IBM-PCは徹底してビジネスマンをターゲットにしたPR戦略を取ります。
対応ソフトのラインナップの多さを強調し、実用性の高さで勝負しました。
初期出荷の時点でマイクロソフトの「PC-DOS」は標準装備で60ドル販売されました。
それに対し、デジタルリサーチの「CP/M-86」は数か月遅れでリリースされ、価格は240ドルでした。
ほとんどの人はPC-DOSを選び、CP/M-86対応のソフトはほとんど出ませんでした。
IBM-PCは仕様を公開していたため、多くのメーカーが互換機を発売しました。
そちらへは「MS-DOS」を販売することでマイクロソフトは躍進し、OS市場を制したのでした。
「CP/M-86」が出てくると聞いて、負けないよう、表計算ソフトをはじめ、とにかく対応ソフトをたくさん用意したんじゃ
その後のデジタルリサーチとキルドール
IBMとの取引の失敗を経て、キルドールは家族経営に限界を感じました。
経営に詳しい人材を多く採用し、立て直しを図ります。
IBM-PCのOS争いには敗れましたが、それですぐに会社が傾いたわけではありません。
1980年には350万ドルだった売上は、1982年には2000万ドル、1983年には4500万ドルと成長していきます。
経営人材が増えた分、彼自身の会社への影響力は弱くなりましたが、独自の研究開発を進め、CP/Mをマルチタスク化した「MP/M」を開発。
教育分野にも力を入れ、当時最先端だった光ディスクの技術を取り入れコンピュータ百科事典を制作したり、テレビ番組「コンピュータ・クロニクルズ」の司会を勤めたりしました。
しかし、1980年の取引の失敗は「キルドールは気晴らしに飛行機に乗るために無責任に休暇をとった」という伝説となって広まってしまいました。
後々、それを否定するのにも嫌気がさしたそうです。
1994年、NHKの「新・電子立国」の取材班のインタビューに対し
「MS-DOSは100%CP/Mをマネしている。ビル・ゲイツは何も発明していない。原型がCP/MであることはMS-DOSの中身を見れば明らか。ビル・ゲイツはIBMと共同でCP/Mの市場を奪った」
と、発言しています。
このインタビューの翌日、1994年7月8日、キルドールはカリフォルニア州モントレーのバイカーバーで転落して事故死してしまいます。
晩年の彼はアルコール中毒にも苦しんでいたそうです。
彼の死を伝える新聞記事にはこうありました。
ゲイリー・キルドール、享年52歳
CP/Mで成功したがIBMとの交渉で決定的なチャンスを逃した男
彼の偉大な業績をちゃんと覚えておくんじゃぞ!
それにしても、今回は登場人物も多かったですね!
その分、いろんな人が関わっとったというワケじゃな
師匠、PCに変わるなんかすごい発明してください!
弁護士を呼べーーー!