コピーアンドペーストを作ったラリー・テスラー
これができたおかげでどんなにパソコンが使いやすくなったことか…
そこで普通の人にも使えるようにするためにとラリー・テスラーがコピペを作り出したのだ!!
グラフィカルユーザーフェイス(GUI)との出会い
ラリー・テスラーは、アメリカのニューヨークブロンクスで1945年生まれました。
1961年ブロンクス化学高等学校を卒業後、スタンフォード大学でコンピュータ科学を学びます。
大学卒業後スタンフォード人工知能研究所に入り、初心者にプログラミングについて理解してもらうためのプログラミング言語「Compel」を開発しました。
またミッドペニンシュラ フリー ユニバーシティでは、「IBMの独占を終わらせる方法」、「コンピュータの今」などの講義もしていました。
パロアルト研究所での開発
1973年、テスラーはXeroxの研究開発企業であるパロアルト研究所(PARC)に勤務します。
パロアルト研究所は1970年に設立され、コンピュータ関連の開発を行っていました。
テスラーがパロアルト研究所に入った年、世界で初めてグラフィカルユーザーインターフェース(GUI)をベースにしたオペレーティングシステムのパソコン「Alto」が起動しました。
「Alto」は小型なキャビネットに納められ、ディスプレイとマウス、キーボードが付いたコンピュータでした。
「Alto」のオペレーティングシステムのため1972年にはアラン・ケイが発案した「Smalltalk」の開発が始められていました。
Smalltalk は「オブジェクト指向」のプログラミング言語であり、その言語を使用して構築したプログラミング環境のことです。
テスラーはティム・モットとともにこのSmalltalkに適した文章作成ソフトウェアの開発を始めました。
アラン・ケイ、ロバート・テイラー!
モードレスなGypsyでコピーアンドペースト
テスラーとモットは、既にあった文章作成ソフトウェア「Bravo」をもとに開発を進めます。
「Bravo」は、入力してディスプレイに写ったものがそのまま印刷されるWYSIWYG(アクロニム: ウィジウィグ)とした初めての文書作成ソフトウェアで、既に「Alto」に搭載されていました。
しかし「Bravo」は操作が煩雑で、一般的なユーザーには使いやすいとは言えませんでした。
「Bravo」では、挿入モードやコピーモードなどはじめにモードを設定する必要があり、モード設定中は他のドキュメントを開くことができず、ドキュメント間でのコピーや置換が困難だったからです。
そこでテスラーはモードを無くし、少ない操作で目的の作業ができることを目標としました。
ヒントはTVEDITに有り
テスラーはモードレスにするためのアイデアを考えていると、過去に季刊カタログの貼り付け作業でもっと楽な方法はないだろうかと考えたときに見た「TVEDIT」を思い出しました。
「TVEDIT」は1962年ブライアン・トリバーがDEC PDP-1 コンピュータ用として開発しました。
モードはありましたが、2段階操作でコピーや置換などができて、エラー回復コマンドもありました。
このTVEDITをヒントにしてついに1975年文章作成ソフトウェア「Gypsy」が完成。
「Gypsy」は公開される前にユーザーテストして、パソコンを今まで使ったことがない人でも簡単に文章を入力できました。
それは操作が実に簡単だったからです。
「Gypsy」は、今では当たり前になっている機能が備わっています。
- 文字の間をクリックすると点滅して、そこから入力が始められる。
- 単語をダブルクリックして選択する。
- カット&ペーストの2つの手順でテキストを移動。
- コピー&ペーストの2つの手順でテキストをコピーする。
- ピクトグラムを使ったアイコン
これらの機能は、やがて文章作成ソフトウェア以外にも用いられるようになり、一般ユーザーにもパソコンが受け入れやすい環境を整えてくれました。
ポータブルコンピュータNoteTakerとイーサネット
パロアルト研究所でテスラーは、ダグラス・フェアバーン、アデル・ゴールドバーグとポジションコンピュータ「NoteTaker」の開発もしています。
この開発には、ソフトウェアで記述され機能するイーサネットプロトコルを初めて設計に含みました。
旅行先でテストも行いましたが、「Alto」の開発が主になり、試作機が約10台作られる程度で終わりました。
スティーブ・ジョブズの訪問
1979年スティーブ・ジョブズがパロアルト研究所を訪れました。
ジョブズはテスラーから「Alto」のデモンストレーションを見せられ、グラフィカルユーザーインターフェースがこれからのパソコンには必要だと強く感じました。
しかしSmalltalkを適用したAltoが商業的に販売されることはありませんでした。
その頃アラン・ケイなどの開発スタッフがパロアルト研究所から去っていき、テスラーも旅立つ時がきました。
AppleでのLisaとNewtonの開発
1980年、テスラーはパロアルト研究所を辞めAppleに入社します。
Appleでは、グラフィカルユーザーフェイスのコンピュータ「Lisa」の操作を簡単にするため、プログラム言語「Pascal」の拡張の開発を担当しました。
「Pascal」の作成者であるニコラス・ワースとともに1985年「Clascal」を完成させます。
しかし「Lisa」は1983年オフィス向けに販売されますが、高価な上に動作が遅く不評でした。
そこでAppleは開発していた「Macintosh」に、Clascalを進化させた「Object Pascal」をMacAppアプリケーションフレームワークのプログラミング言語として使用しました。
苦難な開発Newton
テスラーが次に取り組んだのは、携帯情報端末「Apple Newton」。
ノートぐらいの大きさに高度な性能を詰め込んだコンピュータを作り出さなければなりませんでした。
何よりも今までなかった手書き入力の開発もありました。
テスラーは開発メンバーたちとアイデアを出し合い議論が続きました。
限られた大きさに使用するハードウェア、ソフトウェアに、テスラーは自分の意見を出し、時には譲歩しなければいけないこともありました。
ARMアーキテクチャ
「Apple Newton」では高度なグラフィック操作を可能にするため、これまでのプロセッサよりも高度で低電力なプロセッサが必要でした。
テスラーはイギリスのエイコーン・コンピュータの「ARMアーキテクチャ」に注目し、ともに開発できるように、Appleとエイコーン・コンピュータが出資した新会社 Advanced RISC Machines の設立に尽力しました。
こうして最新プロセッサ ARM610 が「Apple Newton」に使用されました。
また「Apple Newton」では手書き入力の機能を取り入れることにしましたが、技術的には未熟であり、何度もデモンストレーションを繰り返しました。
このような苦労の末1992年「Message Pad」とも呼ばれた「Apple Newton」が公開されるのでした。
- メモも図形も手書き入力
- 通貨変換などできる計算機
- 赤外線ポートで同期ができるアドレス帳
- 「to do」リスト管理もできるスケジュール帳
このように今までにない機能がある携帯情報端末機は発売前の広告もあり、大きく話題をさらいました。
しかし、次第に「価格が高い」、「手書きが正しく入力されない」、「動作が遅い」と言った不評が多くなり、改良を重ねましたが、1998年販売終了となりました。
「Apple Newton」の発売と同じ頃にテスラーは開発メンバーから離れました。
次にテスラーは学童用のプログラミング言語「Cocoa」を開発した後、1997年Appleを退社しました。
スティーブ・ジョブズはAppleに戻った後は、この「Apple Newton」をお手本にして、iPadやiPhoneを作っているからな!
モードレスを続けるテスラー
テスラーは退社後会社を設立し、教育用プログラミング環境「Stagecast Creator」を開発しますが、うまくいきませんでした。
2001年にはAmazonにエンジニアリング担当副社長として入社し、ショッピング エクスペリエンス担当副社長に昇進し、ショッピングサイトのインターフェース化に貢献しました。
2005年からはYahooでユーザーエクスペリエンスおよびデザイングループの副社長として働きます。
2008年にYahooを退職すると、コンサルタントしてシリコンバレー企業のユーザーインターフェースの設計などを支援するようになりました。
シリコンバレーで成功したら、その資金を新しいシリコンバレーに資金提供し、育てていくことが必要であるとテスラーは思っていたのでした。
テスラーは生涯にわたってこだわってきたのは「モードレス」でした。
自分の車のナンバーに「NOMODES」、Twitterのアカウントも「@nomodes」、ホームページももちろん「nomodes.com」と徹底したこだわりを見せました。
2020年2月16日テスラーは74歳で永い眠りにつきました。
ところでミツオカ、今日はひたすらコピペで何をしていたのだ?
「しゃべる猫じじい譲ります」とは!
コピペって便利だなと思ってたら、いろんなサイトにコピペしちゃってた!テヘッ!