CGを作ったのは誰?
リアルすぎてちびりそうでした!
初代トイストーリーやFF7が発売された時点でも驚いたものじゃが、今は現実と見分けがつかないレベルのものまである
今回の映画は恐竜が生きてるような感覚すらしました!
その話詳しく教えてください!
非凡な少年アイバン・サザランド
コンピュータグラフィックス(CG)の元祖となる「Skechpad」を作り出したアイバン・サザランド。
今回は、そんな彼の物語をお届けします。
彼は1938年に、土木工学の博士号を持つ父と教員の母の次男として生まれました。
サザランドは2歳年上の兄バートとともに父の機械の図面を見たり、幾何学やアマチュア無線について話したりして過ごすような子供でした。
そして、12歳になったサザランドは、父が持って帰った卓上計算機「Simon」に夢中になります。
「Simon」はエドムンド・バークレーが1950年に制作した2進数のプログラムができる計算機でした。
サザランドは合計が30まで足し算しかできなかった「Simon」を改造し、割り算もできるプログラムを記述することに成功。
この成功体験はサザランドにとって、大きな喜びと自信になりました。
大学で出会った人工知能
1956年9月サザランドはカーネギー工科大学の電気工学部に入学します。
先輩には、その年の夏に世界初の人工知能プログラム「ロジック・セオリスト」を、RANDコーポレーションのアレン・ニューウェルとともに発表したハーバート・サイモンがいました。
人工知能に興味を持ったサザランドはエドワード・ファイゲンバウムといっしょに人工知能の未来を予測した論文を書いて、知識を深めていきました。
1959年、サザランドはカリフォルニア工科大学の修士課程で操縦制御の安定性について研究し、博士号を取得。
1960年にはマサチューセッツ工科大学の大学院に進学します。
Skechpadを開発!
マサチューセッツ工科大学では当時では最先端のトランジスタ式コンピュータ「TX-2」が1台あり、CRTディスプレイとライトペン、磁気テープが備えられていました。
父の機械製図を見ていたサザランドはライトペンを使った作図ができないかと考え、研究することにしました。
しかし「TX-2」は一人しか使用できないため、サザランドは早朝の2時間でしか研究ができませんでしたが、曲線をなぞるプログラムや迷路を解くプログラムを書き終えました。
それを情報理論の父とも呼ばれているクロード・シャノンに見せ、意見を求めました。
シャノンはサザランドのプログラムに可能性を感じ、指導教官になることを決め、描画プログラムの開発を支援しました。
サザランドは更に他の教授の助言も得て、ついに1961年の秋、直線を引いてその後に平行線や垂直線を加えることができるようにしたのでした。
更に円を描くプログラムが必要だとシャノンから言われたサザランドは、ディスプレイの限られた解像度の問題を乗り越え、円と直線を交差させることに成功しました。
ここでサザランドは、基本的な図形の自動作図のライブラリーを作り、それを元にして必要な図形を作り出すプログラムに作成し直しました。
新しいプログラムは「Skechpad」と名付けられ、1962年サンフランシスコで開かれたダグラス・エンゲルバートが指揮する分科会「人間と機械の連携」で公開。
ライトペンを操作して「図形を描き」「移動」「コピーする」などコンピュータと対話する「Skechpad」は今までにはなく、視聴した人たちを驚かせ強い印象を与えました。
サザランドは「Skechpad」を更に改良し、1963年論文「Sketchpad: A man-machine graphical communication system」を書き博士号を取得し、コンピュータグラフィックスの時代が始まったのでした。
IPTOでのネットワークプロジェクト
サザランドのサンフランシスコでのデモストレーションを見ていたIPTO(アメリカ国防総省ARPAの情報処理技術室)の部長リック・ライダーは、サザランドに次の部長を依頼してきました。
その頃IPTOではネットワークの実現に向けて、各研究所や大学と連携して開発を進めていました。
1964年、26歳となったサザランドはIPTOの部長の職に就きます。
サザランドはネットワークプロジェクトの成功のためには高速で対話できるコンピュータの必要性を感じ、その分野で力を入れている大学を助成しました。
また先駆的なコンピュータ開発をしているローレンス・ロバーツとレオナード・クラインロックをメンバーに招きました。
心強いメンバーがそろった頃、サザランドはハーバード大学から助教授の誘いがあり、ロバート・ティラーに部長を譲り、1965年IPTOを去るのでした。
世界初のVRヘッドマウントディスプレイ
ハーバード大学でコンピュータグラフィックスの講義していたサザランドは、優秀な生徒を助手にして夜間航空の着陸を助ける赤外線カメラの開発を始めます。
研究を進めるうちにできたのがヘッドマウントディスプレイでした。
ヘリコプターの頭上に赤外線カメラを装着し、その画像をパイロットが装着しているヘッドマウントディスプレイで見られるように試みました。
あるときキャッチボールの撮影をしていると、ボールがカメラへと飛んできました。
ヘッドマウントディスプレイを装着していた人はとっさにボールを避けるしぐさをします。
これを見たサザランドは、画像をコンピュータグラフィックスに置き換えることができるのではないかとVR(Virtual Reality)を思いつきます。
1968年に完成した装置は「The Sword of Damocles(ダモクレスの剣)」と名付けられました。
天井からメガネがぶら下がり、2つのブラウン管が3D映像を映し出し、それがミラーに写る現実世界と合わさり、仮想空間を作り出しました。
実用的な装置ではありませんでしたが、バーチャルな世界への大きな1歩になりました。
この前、開発された技術かと思ってました!
起業と教授の2重生活
コンピュータグラフィックスの将来性を感じていたサザランドはユタ大学の教授であったデビッド・エバンスに声を掛けられ、3次元グラフィックスの会社「エバンス・アンド・サザランド(E&S)」を1968年設立します。
会社と言っても場所はユタ大学内にある簡素な建物でした。
また同じ年にはユタ大学で教授を務めるようになりました。
商用開発と教授の2重生活を行うこととなり、忙しい日々を送ります。
ユタ大学の教え子たち
ユタ大学でサザランドに教えを乞う学生たちの中には、後のコンピュータ界を変えていく研究者が多く生まれました。
サザランドの講義を受け、知識と技術を受け継いだ教え子たちは、あらゆる分野でコンピュータの世界を広げることになりました。
そんな教え子達を少しだけご紹介したいと思います。
アラン・ケイ
パロアルト研究所で、グラフィカルユーザーインターフェースコンピュータ「Alto」とオブジェクト指向言語で記述された統合化プログラミング環境「Smalltalk」を開発。パーソナルコンピュータの先駆けとなる。
エドウィン・キャットマル
3DCGやデジタル合成の技術を映画に取り入れ、ウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオとピクサー・アニメーション・スタジオの社長に。
ジョン・ワーノック
チャールズ・ゲシキとともに「Adobe」を設立し、DTPの普及のかぎとなった「Postscript」を開発。
フランクリン・C・クロウ
コンピュータ描画のギザギザを目立たなくしたアンチエイリアスの技術を生み出す。
ジェームズ・H・クラーク
インタネット初期のブラウザ「ネットエスケープ」を開発。
E&Sのフライトシミュレーション
エバンス&サザランドの会社ではじめに開発したのは、ディスプレイ・システム「LDS-1」でした。
「LDS-1」はホストコンピューターに繋いで制御され、滑らかな直線を描くこともでき、フライトシミュレータや科学画像処理を目的にしていました。
1969年に販売をし、研究開発会社BBNに搬入されましたが、あまり売れませんでした。
資金繰りに悩む日も続きましたが、「LDS-1」の機能は認められていたので、ゼネラル・エレクトリックから技術者を招き、パイロットの操縦訓練用の装置を作りました。
民間航空会社用の「NOVOVIEW」は、英国のフライトシミュレータ販売会社Redifonとの業務提携により、販売が軌道にのりました。
高性能の画像生成器を持つCTシリーズも同時期に販売を始めます。
ちょうどその頃第一次オイルショックが起こり、原油価格が高騰し、航空会社はコスト削減のため、フライトシミュレーションを取り入れるようになってきました。
またアメリカ連邦航空局の認可を受け、広く流通できるようになり、1974年にはようやく黒字になり、会社は成長するのでした。
会社が軌道に乗ると、1974年サザランドは副社長の地位から降りて一役員として名前は残し、ユタ大学からカルフォルニア工科大学へ物語が移ります。
しかし仕事といっても研究の延長だじからな
非同期回路への挑戦
カルフォルニア工科大学では、集積回路を専門とするカーバー・ミードと会い、集積回路について詳しく学べるコンピュータ・サイエンス学部を作り、初代学部長になりました。
また複雑となっていく回路設計にはコンピュータ化が必要だと思い研究に取り組み、ミードの半導体設計CADの研究を支援しました。
サザランド、スプロウル&アソシエイツ
1980年、サザランドは再び会社を設立します。
カーネギーメロン大学の助教授のロバート・スプロウルとともに、「サザランド、スプロウル&アソシエイツ」を始め、技術コンサルタントやベンチャーキャピタルの仕事を請け負うようになりました。
またカーネギーメロン大学の大学院生のロボット研究を支援して、6本脚で歩く「トロージャン・コックローチ」を完成させました。
サザランドは1983年ワシントン大学のウェズリー・クラークとチャールズ・モルナーが開発した非同期回路モジュールを見る機会がありました。
コンピュータはメモリーやキャッシュからデータを同期して取り出していましたが、それでは回路は次第に複雑になり、電力消費量も増えていきます。
サザランドはこの問題を解決するため非同期回路の研究に取り組み、1991年論文「ロジカル・エフォート」をスプロウルとともに発表しました。
1991年5月、「サザランド、スプロウル&アソシエイツ」はサン・マイクロシステムズに買収され、サザランドはラボラトリーズのフェロー兼副社長となりました。
アイバン・サザランドのメッセージ
サザランドは2005年から2008年までカリフォルニア大学バークレー校の客員研究者にもなりました。
非同期回路の研究はその後も続け、2003年にはスーパーコンピュータ「Hero」の開発も始めました。
1988年にチューリング賞を受けたサザランドは、2012年、第28回先端技術部門京都賞を受賞し、日本も訪れています。
その時に、科学者は何が重要であるか見つける観察力と注意力が必要であることを述べ、
「子供の頃からモノづくりが好き、科学はただおもしろいからずっとやってきたしこれからもやっていく」
と語っていました。
サザランドは課題を見つけては尽きることのなく研究を生涯続けていくことでしょう!
好奇心が尽きないんでしょうね!
その好奇心がある限り、まだまだコンピュータは進化していくのだろう
ライトコードブログがなくなったら存在が消えてしまうから頑張るんじゃぞ!!