「テトリス」は世界一のゲーム?
世界一のゲームってなんだと思う?
「マリオ」「FF」「ドラクエ」…名作はたくさんありますもんね。
私たちの世代なら「ポケモン」とかかな?
しかし、シンプルでありながら強烈な中毒性を持ち、流行の瞬間最大風速や後のゲームへの影響度、登場時のインパクト、どれもズバ抜けておる!
ちなみに、テトリスってどれくらい売れたんですか?
ソ連って当時は西側と交流なかったんですよね?
ゲームソフトは輸出できてたんですか?
では、テトリスが開発された経緯と、ゲームビジネスにとって重要な「ライセンス」について解説するかのう!
ソ連で開発された「落ちものパズル」の元祖、「テトリス」
東西冷戦終結前の1980年代後半、突如現れたソ連製のパズルゲーム「テトリス」。
上から落ちてくる、「7種類のブロック(テトリミノ)を回転させ、横一列うまくはめ込むと消える」という単純なゲームです。
しかし、単純ゆえにその中毒性は高く、一度ハマると抜け出せなくなる魔力がありました。
ロシアの民族音楽をBGMとしたエキゾチックな雰囲気も手伝って、世界各国で大流行しました。
時間を忘れて夢中になる人が続出したため「ソ連がアメリカの生産性を落とすために流行らせたゲームだ!」という陰謀論まで生まれました。
多くの派生ゲームが生まれ「落ちものパズル(落ちゲー)」というジャンルが生まれました。
このゲームを開発したのは、ソ連科学アカデミーのコンピュータ技術者「アレクセイ・パジトノフ」。
まだ東西のビジネス交流も乏しかった1984年にテトリスは生まれました。
テトリスはどのような経緯で開発され、世界中に広まったのか見ていきましょう!
ソ連のコンピュータ科学者アレクセイ・パジトノフ
「テトリス」の開発者として知られる、「アレクセイ・パジトノフ」は1956年、モスクワで生まれました。
父親は哲学者で母親は映画ライター。
母親の仕事の関係でたくさんの映画を観る機会に恵まれ、特に「007」シリーズがお気に入りだったとか。
1967年、彼が11歳の時に両親が離婚してしまいます。
パジトノフ少年は母親に引き取られ、国が所有するワンルームのアパートで17歳まで育ちます。
コンピュータの世界へ
当時のソ連はアメリカとの冷戦真っ只中です。
ロケット開発や宇宙開発競争を有利に運ぶべく、コンピュータエンジニアの育成に力を注いでいました。
飛行機好きだった彼はモスクワの飛行研究所に入りコンピュータの勉強をし始めます。
1979年には、ソ連科学アカデミーのコンピューティング センターに入りました。
その始まりは1724年、ピョートル大帝の時代までさかのぼると言われておる!
仕事の合間に「テトリス」を制作
彼が働いていた当時のアカデミーの環境は過酷だったといいます。
4、5人用の部屋に15人の研究者が詰め込まれ、1台のコンピュータを3、4人で使っていました。
なかなか順番が回ってこないので、毎日深夜まで働いていました。
研究はすべて軍事目的で、当時は「音声認識技術」を開発していました。
現在の「siri」などにもつながる技術ですが、KGBの盗聴に使われ、反政府的な言動を検知することに利用されていました。
オリジナルゲームの開発に挑戦
それでも、研究者たちはプログラミングへの情熱にあふれていました。
仕事が終わったあとにこっそりコンピュータを使っていました。
西側との情報は閉ざされていましたが、厳しい検閲をかいくぐって「パックマン」などの人気ゲームが流入し、人気となります。
多くの研究者がそういったゲームのコピーを試みていました。
そんな中、パジトノフは自分でも面白いゲームを作りたいと思い、オリジナルのゲーム作りに挑戦します。
伝統的なパズルをもとにゲームを制作
彼らが使っていたコンピュータはソ連製の「エレクトロニカ60」。
OS は CUI(キャラクターユーザーインターフェース)で、文字しか扱えません。
これでなにかゲームを作ろうと考えたパジトノフが思いついたのは、子供のころに遊んだ「ペントミノ」というパズルです。
5つの正方形がつながった12種類の図形のブロックを枠の中にきれいに納めるパズルです。
これなら低スペックのマシン上でも再現できそうです。
四角形なら記号の [ ] を使って表現できます。
しかし、12種類は多いので正方形を4つに減らし、ブロックを7種類にします。
なんとかゲームは出来上がりましたが、一度解いてしまえばその後は簡単に揃えられます。
これではちっとも面白くありません。
試行錯誤の末に「テトリス」完成
そこで、パズルを納める枠を縦に長くし、上からブロックが落ちてくるようにしました。
ブロックをうまく回転させて、隙間にはめ込んでいくゲームです。
しかし、そうするとあっという間にブロックは上まで埋まってしまい、すぐにゲームオーバーです。
それならばと、一列そろったらそのラインは消えるようにしました。
このアイデアが決定的でした。
うまくラインを揃えてブロックを消し、その分全体が下がれば、永遠に遊ぶことができます。
1984年6月6日、後に世界を席巻するゲーム、「テトリス」が誕生しました。
「テトラポッド」とかいうじゃろ?
まあ、タイトル付けは制作者の勝手ですからね
増殖するテトリス中毒者たち
パジトノフは自分で作ったゲームに夢中になりました。
列をきれいに揃えるとブロックが消えることで強い達成感を覚え、やめられなくなりました。
仕事が始まる時間になってもゲームをやめられず、他の職員に怒られる始末でした。
テトリス中毒者の第一号はパジトノフ自身だったのです。
天才少年によりIBM PCへ移植
噂を聞きつけた職員たちはこぞってテトリスをコピーさせてもらい、やがて、科学アカデミー中に大流行しました。
数週間とたたずに、コンピューターが導入されているモスクワ中のすべての研究所にテトリスは広まりました。
モスクワ医学研究所では、職員が仕事をほっぽり出してテトリスに興じていたため、早速「テトリス禁止令」が出されました。
当初のテトリスはエレクトロニカ60でしか動かなかったので、「IBM PCでも動かせるようにしてほしい」という要望が寄せられるようになりました。
そこで、パジトノフは、科学アカデミーで「天才少年」と呼ばれていた、弱冠16歳のエンジニア「ワジム・ゲラシモフ」に依頼します。
ゲラシモフはIBM PCの性能を活かし、モノクロだったブロックをカラーにし、ハイスコアを残す機能を持たせました。
よりゲームらしくなり、テトリスの人気はさらに高まります。
テトリス、ソ連全土を席巻
パジトノフはテトリスを、もっと多くの人に楽しんでもらいたいと思いました。
しかし、当時のソ連は社会主義国家で、個人がビジネスをすることは認められていません。
研究者たちが作ったものはすべて「国の財産」となります。
パジトノフは、フロッピーにコピーしたテトリスを欲しい人に配るくらいしかできませんでした。
それでもテトリスの人気はますます高まり、1986年には、ソ連全土に広まりました。
一銭も儲かりませんでしたが、みんなが遊んでくれて彼は満足していたといいます。
しかし、1960年代末に独自開発をやめてIBMのコンピュータのコピーばかり作るようになってしまった
結局、西側の科学雑誌を読んでコピーするばかりとなり、技術革新は止まってしまったんじゃ…
鉄のカーテンを超え西側へ
なにやら変わったゲームがソ連で流行っているらしいという噂は国外にも広まっていきました。
噂を聞きつけた、ハンガリーの「アンドロメダ・ソフトウェア」の社長「ロバート・シュタイン」はテトリスのコピーを入手します。
遊んでみたところ、すぐに「これは売れる!」と確信しました。
ハンガリーはソ連の衛星国でしたが、西側との交流も、わずかながら行われていました。
早速、開発者に連絡を取り、ライセンスを得ようと動き出します。
国境を超えるテトリスの「ライセンス」
秘密主義のベールに包まれたソ連科学アカデミーの研究者との接触は困難を極めました。
シュタインはなんとかパジトノフにたどり着き、「西側での販売権を売ってほしい」と申し出ます。
パジトノフはテトリスがさらに広まることを喜び、「とてもうれしい!」と返信しました。
これを「イエス」と受け取ったシュタインは大喜びで、早速、欧米でのゲーム販売の準備に入ります。
アメリカでも大ヒット
シュタインはイギリスの「ミラーソフト」とアメリカの「スペクトラム・ホロバイト」にサブライセンスを与え、発売準備を開始します。
そこへ、ソ連の「外国貿易協会 (ELORG)」から「待った」がかかります。
ELORGはソ連製のハードやソフトを管理する団体です。
彼らが言うには、テトリスも国の財産なので、パジトノフが勝手にしてよいものではないとのことです。
すでにOKをもらっていたと思いこんでいたシュタインは困り果てますが、何とか交渉し、あらためてELORGからライセンスを得ます。
こうして1987年、IBM PC向けのテトリスが、アメリカで発売されます。
ロシア民謡を使ったBGMやクレムリン宮殿の背景など、物珍しさも手伝って、大ブームとなりました。
そして、テトリス中毒者はアメリカでも大発生したのです。
ソフトウェアの世界では「使用」、「改変」、「再配布」、「販売」をしていいかどうか、その際の条件や報酬を定めることを「ライセンスする」と言う
使用権しかないのに、勝手に改変して売ったりすると怒られる
「再許諾」とも言われている
しかし、ライセンスが次々に転売されていくと困るから、普通の著作権者はいやがるのう…
その事が、後に大きな問題となるんじゃがな…!
錯綜するライセンス
大人気となったテトリスは多くのプラットフォームに移植されます。
1988年5月、イギリスのミラーソフトが、「アタリ」の子会社「テンゲン」にサブライセンスを許諾します。
テンゲンはさらに「セガ」にサブライセンスを許諾します。
1988年、セガからアーケード版テトリスが発売され、これも大ヒット。
セガはメガドライブ用のテトリスの販売準備も始めました。
テトリスのライセンスは、きわめて複雑な状況となっていました。
テトリスに魅入られた男、ヘンク・ロジャース
ここで、もう一人、テトリスの歴史にかかわる重要人物が登場します。
日本在住のオランダ人ゲームクリエイター、「ヘンク・ロジャース」です。
横浜でゲーム会社「ビーピーエス(BPS)」を設立し、ファミコンのゲームを制作していました。
彼は1988年、アメリカに渡り、ラスベガスの見本市でテトリスに出会い、トリコになります。
早速、テンゲンからサブライセンスを得て、BPSからファミコン版テトリスを発売します。
ゲームボーイ版テトリスの発売を画策
日本に帰国したロジャースは、任天堂から新型携帯ゲーム機「ゲームボーイ」が発売されることを知ります。
これはテトリスに打ってつけのハードだと確信し、任天堂にゲームボーイ版テトリスの発売を提案します。
しかし、ライセンス契約書を調べなおしてみると、携帯ゲーム機での発売が許されているのか判然としません。
そこで、改めてテトリスの携帯ゲーム版のライセンスを確認しようと考え、モスクワへと向かいました。
そんな彼が、テトリスの歴史に大きくかかわっていくんじゃな
モスクワの戦い
モスクワに降り立ったロジャースは通訳を雇い、なんとかELORGのメンバーにアポを取り、本部にむかいました。
ライセンス責任者の「ニコライ・ベリコフ」と面会しますが、ここで驚くべきことが発覚します。
ロジャースが持ってきたファミコン版のテトリスを見て「なんだこれは?」と激怒。
ELONG が許諾したのはあくまでIBM PC向けのテトリスの販売であり、それ以外は許していないとのことでした。
テンゲンやBPSなど初めて聞くベリコフに、ロジャースはライセンスが錯綜していることを説明します。
三つ巴のライセンス争奪戦
ライセンス交渉を開始するロジャースの前に、ライバルが立ちはだかります。
大元のライセンス保持者であるアンドロメダ・ソフトウェアと、そこからサブライセンスを受けたイギリスのミラーソフトです。
ミラーソフトの社長、ケビン・マクスウェルはデイリー・ミラー紙などを擁するメディア帝国「ミラー・グループ」の総帥ロバート・マクスウェルの息子です。
ロバート・マクスウェルはメディア王ルパート・マードックのライバルともいわれる大物で、ソ連の上層部ともパイプを持っています。
アンドロメダのシュタインも、大元のライセンスを持つものとして譲れません。
そこにロジャースは単身挑むことになります。
ゲームクリエイター同士で意気投合
ミラーグループがゴルバチョフを通じて圧力をかけてくる中、ロジャースは ELONG との会合に臨みました。
ロジャースはベリコフらELORGのメンバーに、任天堂と取引すれば、いかに儲かるか説得します。
会合の席にはパジトノフも同席していました。
共にゲームを愛する二人はすぐに意気投合。
その場にいた中で、ゲームのことをまともに理解していたのはパジトノフとロジャースだけだったといいます。
二人はビジネスの話が終わった後もウォッカを飲みながらテトリスについて語り合いました。
テトリスは任天堂の元に
交渉はロジャースの有利に進み、ELONG は任天堂との契約に傾きます。
シュタインは最初にライセンスを取ったのは自分だと主張しますが、逆に初期の契約の不備をとがめられました。
マクスウェルも勝手に家庭用ゲーム機版を販売したことを指摘されます。
ただし、頼みのゴルバチョフはソ連崩壊が迫り、ゲームどころではありません。
結局、ELONG は巨額のライセンス料を提示した任天堂と契約することとなりました。
アタリ経由で得たセガのライセンスは消滅して、すでに生産済だったメガドライブ版テトリスはお蔵入りとなってしまったんじゃ
ソ連の崩壊とパジトノフの渡米
1989年6月ゲームボーイ版テトリスが発売され大ヒットとなります。
どこでも遊べて対戦もできることで人気を呼び、最終的な売上本数は423万本。
単独タイトルとしてはゲームボーイ最大の売上となりました。
加えてテトリス同梱版のゲームボーイは全世界で3500万台も出荷されています。
パジトノフ、ソ連を脱出
ソ連がいよいよ崩壊を迎えた1991年、パジトノフは家族とともにアメリカに脱出しました。
パジトノフを受け入れたのは、ヘンク・ロジャースのBPS社のアメリカ法人でした。
ロジャースはパジトノフをBPS社の社員として迎え入れ、慣れないアメリカでの生活の面倒も見たといいます。
ある日、スーパーマーケットに案内されたパジトノフは「何個まで買っていいのか?」と聞いたそうです。
統制経済で物不足だったロシアから一転、豊かなアメリカでの生活がスタートしました。
テトリスの権利を取り戻す
テトリスは世界的にヒットしましたが、パジトノフ自身はまったく著作権料を受け取っていませんでした。
しかし、1995年、ライセンスをめぐる合意が失効したことで、ようやく使用料が入り始めます。
1996年にはパジトノフとロジャースで「ザ・テトリス・カンパニー」を設立。
テトリスや関連商品のライセンスを管理することが目的の会社です。
2005年には、ソ連崩壊後に民営化されたELONG を買収し、ついに全世界におけるテトリス関係の権利を掌握しました。
でも、祖国を離れてアメリカでの暮らしに慣れるの大変だったでしょうね
パジトノフの現在
パジトノフはアメリカでもゲーム制作を続けました。
1992年発売のスーファミ版「ヨッシーのクッキー」のデザイン協力などに携わっています。
1996年10月から2005年までマイクロソフトに勤務し、「Xbox」の開発にも協力しています。
しかし、時代は「Halo」などの「人を撃つゲーム」が人気となっていました。
彼はそういったゲームに背を向け、「Hexic」というパズルゲームなどを作っています。
彼は人々がテトリスにハマる理由は、人間には「無秩序なものを見ると、それを整理整頓したくなる性質」があるからだと分析しています。
無作為に落ちてくるパズルを、プレイヤーの手で秩序正しく納めていく。
そこにプレイヤーは快感を覚えるのだといいます。
テトリス以降、ブロックや色を揃えるパズルゲームが無数に生まれました。
元祖テトリスも様々なバリエーションを産み、現在もeスポーツの世界でプレイされています。
今では、ちゃんとライセンス料がパジトノフ自身に入っています。
彼自身の人生も、無秩序な政治状況や絡み合ったライセンスに翻弄されてきました。
現在は、すべての混沌が整理され、ワシントンの郊外のベルビューで穏やかな日常を過ごしているそうです。
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わっ!テトリスっぽい!
上のコードは、最も短い「7行コード」と言われているものじゃ
フィールドやブロックのサイズを本家と同じにして「テトリス」という名前を使って儲けようとすると、テトリス・カンパニーに訴えられる
やっぱり面白いですね
もう今日は仕事になりません!