削除してしまったファイルで閃いた!ピーターノートン
セキュリティーソフトのイメージも強いですが…
削除してしまったファイルがキッカケで一連のシリーズは始まったのじゃ!
では今日はピーター・ノートンの話をするかの~!
失敗から生まれたノートンユーティリティーズ
ピーター・ノートンは1943年ワシントン州アバディーンで生まれ、シアトルで育ちました。
大学はオレゴン州ポートランドのリード大学に進み、1695年に卒業します。
その後、ボーイングやNASAジェット推進研究所(JPL)でメインフレームやミニコンピュータの仕事をし、プログラミングのスキル磨きました。
IBMコンピュータ向けの低レベルシステムユーティリティを開発し、コンピュータの利便性を向上させたこともありました。
このことによりノートンは、ユーティナリティについてのスペシャリストとして名前が広まるのでした。
失敗から生まれたノートンユーティリティーズ
12年間JPLで働き続けたノートンですが、航空宇宙産業の縮小により、1981年解雇されてしまいます。
ちょうどその頃 IBM PC が販売され、ノートンは購入したいと思っていました。
しかしその価格は1565ドル。
無職になったノートンには IBM PC は高価であり、購入のためにプログラミングの仕事を始めました。
そんなある日、ノートンは誤って必要なファイルを削除してしまいました。
また一から書き直すこともできましたが、ノートンはファイルを復旧させるためのプログラムを書くことを選びます。
こうして無事ファイルの復活に成功したノートンは、このプログラムを友人たちにも試してもらいました。
友人たちから便利だと好評を得て、ユーティリティソフトとして販売しようと決意するのでした!
ノートンユーティリティーズ誕生
1982年「ピーターノートンコンピューティング」を設立。
1台のIBMコンピュータと30,000ドルでの出発でした。
そしてデータ復旧プログラムを販売用に書き直し、「ノートンユーティリティーズ」を発表します。
「ノートンユーティリティーズ」はMS-DOS用に開発されました。
データの復元にはUNERASE ツールを用いて、ディレクトリエントリの最初の文字を復元することにより、ファイルを復元させました。
他にも修復ツールなど14のプログラムを3枚のフロッピーディスクに収め販売しました。
ノートンはチラシを作り、コンピュータのユーザーグループや販売店に置き、営業にもまわりました。
チラシからのチャンス
ある日、ノートンユーティリティーズのチラシに書かれたテクニカルノートを見た出版社から「本を書かないか?」とオファーを受けます。
ノートンは快諾。
「Inside the IBM PC: Access to Advanced Features & Programming (Techniques)」を執筆し1983年に出版すると、第8版まで出るベストセラーとなりました。
他にもパソコン関連の雑誌にもコラムを書き、ノートンの名前は知られるようになり、「ノートンユーティリティーズ」の売上も伸びて、1984年会社の売上は100万ドルに達しました。
ノートンは執筆しながらも、ノートンユーティリティーズをアップデートしていきます。
1983年のバージョン2.0ではハードディスクのサポートも加わり、3.0、4.0とバージョンアップして、1987年の4.0 スタンダード エディションでは、ディスク デフラグ ツールが追加されました。
また新しいプログラマーを雇うようにもなり、ノートンエディターやノートンガイドなどを販売し、従業員も増えていきました。
ノートン先生
1985年ノートンは「The Peter Norton Programmer's Guide to the IBM PC」を出版しました。
この本の表紙には、ピンクのシャツを着たノートンが腕組む姿が採用され、人々にインパクトを与え、「ピンクのシャツの本」と呼ばれ、写真は登録商標までされました。
1988年の第2版にも採用され、ノートンの腕組む写真は定番化していき、「ピーターノートンコンピューティング」で販売されるソフトウエアのパッケージにも使われるようになります。
そしてあるパッケージでメガネを掛けたノートンの写真は、パソコンのお医者さんのようだと「ノートン先生」と呼ばれるようになりました。
会社を売却
ピーターノートンコンピューティングは、1986年ファイルマネージャ「ノートンコマンダー」を販売し、会社全体の売り上げは1988年には1,500万ドルに達しました。
ノートンは時の人となり、アーサーヤング社より「今年の起業家」に選ばれたり、中小企業向けの雑誌Inc.では、急成長しているアメリカ企業のトップ500の中に入ったりもしました。
そんなノートンに転機が訪れます!
1989年ロン・ポズナーを最高経営責任者(CEO)に任命し、ノートンは会長職に就きます。
新しいCEOの元で「ノートンバックアップ」やMacintosh用の「ノートンユーティリティーズ」を販売し、ソフトウエア会社として大きく飛躍しようとしていました。
しかし、1990年「ピーターノートンコンピューティング」はシマンテックへ売却します。
その額は7,000万ドル。
ピーターノートンコンピューティングはシマンテックの一つの部門となり、ノートンは取締役になりました。
ノートンブランドは残り、パッケージにはノートンの写真が2001年まで使用されました。
しかしその頃にはノートンは既にソフトウエアの世界から遠ざかっていたのでした。
不正コピー防止のためのプログラムを改悪して、フロッピーディスクを経由してアメリカで広まったのだ!
ピーター・ノートンの最後のソフトになってしまったわけですね…!
ピーター・ノートンのその後
1989年ノートンはピーター・ノートン・ファミリー財団を設立し、芸術団体や社会福祉団体の支援をしています。
またカルフォルニア工科大学をはじめ、数々の学校の理事を務めました。
現在美術機関であるMoMA PS1の理事にもなり、美術に関して造詣を深め、ホイットニー美術館などの理事にもなりました。
絵画の収集にも熱心で、コレクションを構築し、公開するようにもなっていきました。
しかし、現在その多くは世界中の美術館や大学機関に贈られています。
マーサズ・ヴィニヤード
ノートンは会社を退いてからは、ニューヨークで主に暮らしていました。
そして夏になると、一時家族と住んでいたマサチューセッツ州のマーサズ・ヴィニヤードで過ごします。
2001年に火災で焼失してしまいますが、復元して建て直します。
それほどノートンにとってお気に入りの家であり、大切な場所だったのです。
今のノートンはこのマーサズ・ヴィニヤードで、新しいパートナーと穏やかな日々を過ごしているそうです。
経営していく大変さもあったでしょうね
名前を残せるものを作ったノートンは偉大だな
い、いや…名前よりも皆の心に残る方がいいからな…
心に残るソフトも産み出せてないじゃない!ニヤニヤ
あ~!聞こえない聞こえないー!
あのアプリの続き作ってくるにゃ~!🔥🔥🔥