フリーソフトウェアの「フリー」って何??
自由にソフトウェアを使用できることを表しているのだ
やばいじゃないですか!?
そのハッカーにより、ソフトウェアの開発も活発になってきたと言ってもいいだろう。
その名前は、リチャード・ストールマン。今日はこの方のお話じゃ!
MIT AI研究所
リチャード・ストールマンは1853年、アメリカのニューヨーク州で生まれました。
明晰な頭脳でハーバード大学に進学し、物理学を専攻します。
ハーバード大学には新入生向けの学部に数学コースがありました。
ストールマンはそこで頭角を現し、MITのAI研究所に入る栄誉を得ました。
MITのAI研究所は、PDP-10のコンピュータでITS (Incompatible Timesharing System)を共有して研究をしていました。
ストールマンはそこでハッカーコミュニティに加わり、刺激的な日々を送りました。
ITSを使用してのプログラミングは、他の人のコードを使用できて、開発のために書き換えることもでき、多くのことが学べる場でもありました。
1974年物理学の学位を取得してハーバード大学を卒業するとMITの大学院に進学しましたが、コンピュータへの興味が高まり、物理学の博士号を取ることを断念します。
テキストエディタ Emacs
ストールマンはラインエディタ「TECO(Text Editor and Corrector)」の開発に関わるようになります。
「TECO」は1963年、ダニエル・マーフィーがPDP-1向けに作りました。
コマンドモードの切り替えで追加や編集などができました。
AI研究所で多く利用されていましたが、ストールマンはスタンフォード人工知能研究所で見た「E」エディタに触発され、改良することにしました。
まずハッカーコミュニケーションのメンバーであるカール・ミケルセンがキー操作の度に画面を更新できるモードを追加し、ストールマンはそのモードが効率的に動くように書き直しました。
さらにマクロ機能を追加し、予め決めたキー操作でプログラムが動くようにしました。
Emacsで大きな自信を付ける
この改良版「TECO」はAI研究所で高い評価を得ました。
「Editing MACroS」を意味する「Emacs」と呼ばれ、1976年以降研究所内では標準で使用されるようになったのでした。
ストールマンは「Emacs」の成功で大きな自信をつけ、メンバーと情報を共有してプログラムができる喜びを味わいました。
それとともに「Emacs」がそれぞれカスタマイズされて、プログラムが分裂化していくのを目の当たりにしました。
コンピュータの世界は変わり始めていました。
奪われてしまった自由
1977年、AI研究所はパスワード制を導入します。
これにストールマンは拒否反応を示し、他のメンバーのパスワードを解析し、パスワードを空白文字に変更するようにメッセージを送りました。
この反対行動に賛同する人は20%しかおらず、結局パスワード制は継続。
さらに追い打ちをかけるようにソースコードのコピーや再配布を制限するコピーライトが一般化し、ライセンスなしのアクセスができなくなってしまったのです。
このことにストールマンは「人道に対する罪」だと激しく憤ります。
そして、AI研究所を分裂する事件が起こります。
リチャード・グリーンプラットとラッセル・ノフツカーの対立
LISPマシンの開発について、開発を起ち上げたリチャード・グリーンプラットと後にシンボリックス社を創業したラッセル・ノフツカーの間で亀裂が生じたのでした。
ノフツカーはLISPマシンが商業的に将来性あると見込み、ベンチャーキャピタルから融資を受けて商品化を希望します。
一方、グリーンプラットはハッカーとしてコンピュータの研究を最優先することを望みます。
二人の対立にメンバーも巻き込まれ、多くのメンバーはノフツカーに将来性を感じついていきます。
AI研究所にはグリーンプラットとストールマン、他わずかなメンバーが残りました。
この結果に納得できないストールマンは、シンボリックス社のプログラムのクローンを作成する暴挙に出ます。
次第に「Lotus1-2-3があるからIBMのコンピュータを買う」といったようなことが起こるようになってくる
だから売る方としては似たようなソフトウェアが多く出てきたら困るから、コードは秘密となり、制限が必要になってくるのじゃ
プロジェクト
ストールマンはここ数年のコンピュータ界の動きに異を唱えるため、1983年にGMUプロジェクトを発表します。
1984年には、GNUプロジェクトに専念するためMITを辞めてしまいました。
1985年は「GNU宣言」を発表し、コピーライトにより制限されることのない自由なOS「GNUオペレーティングシステム」の開発に取り組みます。
またコピーレフトを基本とする「フリーソフトウェア財団」を創設し、フリーソフトウェア運動を始めました。
ストールマンが発表した「GNU宣言」とは以下の4つの自由を基本としています。
・どんな目的に対しても、プログラムを望むままに実行する自由 (第零の自由)。
・プログラムがどのように動作しているか研究し、必要に応じて改造する自由 (第一の自由)。ソースコードへのアクセスは、この前提条件となります。
・ほかの人を助けられるよう、コピーを再配布する自由 (第二の自由)。
・改変した版を他に配布する自由 (第三の自由)。これにより、変更がコミュニティ全体にとって利益となる機会を提供できます。ソースコードへのアクセスは、この前提条件となります。
(GNUオペレーティングシステム https://www.gnu.org/gnu/manifesto.html)
「GNUオペレーティングシステム」はフリーソフトウェアのみを使用し、Unixと互換できるシステムにすることを目標としました。
コンパイラ「GCC」
ストールマンは、まずコンパイラ「GCC」を開発しました。
最初は、Pascal の方言である Pastel で書きましたが、C言語で書き直しました。
C言語対応のコンパイラとして「GNU C Compiler」の名前で当初は呼ばれていました。
その後、C++やFortranなどにも対応し、多くの言語のライブラリも含まれるようになっていきました。
GNU Emacs
MITのときに開発した Emacs は一新してGNU Emacsと生まれ変わりました。
1984年から開発に取り掛かり1985年に完成し、コードはC言語で書き、Emacsの拡張用にEmacsLispを使用しました。
Emacsは10,000超えるコマンドにマクロ機能を使って、作業を自動化させることを可能としました。
EmacsLispはLisp言語の方言であり、新たなコマンドやアプリケーションを書くことができて、Emacsを拡張させます。
このGNU Emacsはまだネット環境が整っていない人が多かったため、150ドルでプログラムが書かれたテープを送るようにしました。
これによりストールマンは収入を得ることができるようになりました。
Linuxとドッキング
コンパイラにテキストエディタなどのプログラムが整ってきましたが、オペレーティングシステムの基本機能となるカーネルの開発が不十分でした。
ちょうどその頃リーナス・トーバルズが「Linux」をMINIXのメーリングリストに公開し、支持を得るようになっていました。
LinuxがGNUでの利用が可能であると、LinuxとGNUを結ぶ開発がされ、実用的なオペレーティングシステムが完成します。
ユーザーたちはGNU/Linuxと呼ぶようになり、オペレーティングシステムを自由に改良していきます。
これにはストールマンも満足し、「GNU/Linux」という名前を残すべきだと語るのでした。
ストールマンの信念
ストールマンはソフトウェア運動でコピーレフトを伝えていきました。
コピーレフトはコピーライトと相反し、著作権を持っていても、ソフトウェアのコピーや改変を制限せず、再配布も許可しています。
それは再配布を受けた人も同様で、改変したソフトウェアに制限を設けることはできません。
ライセンスを守りながらも、ユーザーは自由にソフトウェアを使用でき、改良されてプログラムも発展していく。
しかしフリーソフトウェアは何よりも、多くの人がソフトウェアを共有することによりコミュニティが生まれる。
これはストールマンが求めるフリーソフトウェアの姿でした。
それはかつてAI研究所でメンバー同士コードを共有していた頃と一緒です。
ストールマンの信念
ストールマンのGNUプロジェクトの功績に、グレース・ホッパー賞など多くの賞が授与されました。
それでもストールマンはおごることなく質素な生活を続け、プライバシー保護のため携帯電話を持ちません。
また時には過激な発言をしてしまうこともあり、フリーソフトウェア財団の理事を解任されたこともあります。
理事には返り咲きますが、ストールマンは世間に対して今も叫び続けています。
Windowsも使わず、ほとんどフリーソフトウェアを使用することに徹底しているんじゃ
ストールマンは徹底的にしないと気が済まない人なのだろう
ミツオカはすぐに諦めるからな(笑)
長続きできそうなこと見つけました!
しゃべる猫の餌の量を毎日少しずつ減らしていくことです!