ゲーム機の元祖は「オデッセイ」!?
プレステ5がようやく手に入って、ついついゲームし過ぎてしまった…
オデッセイを作ったラルフ・ベアが、テレビでゲームすることを思いついたのだ
戦争に翻弄された青年時代
ラルフ・ベアは1922年ドイツのピルマゼンスでユダヤ人の両親のもとで生まれました。
父親のレオ・ベアは靴工場で働いていましたが、第1次世界大戦が勃発したことにより、町が破壊され、工場も廃業となりました。
家族は、やむなくケルンに引っ越します。
引っ越し先のケルンでも安定した生活は長く続かず、ベアが14歳になると、ナチスの反ユダヤ主義により、学校を中退させられてしまいました。
その後ユダヤ人に対する迫害は日に日に強くなり、一家はドイツから脱出することを決意します。
オランダに逃亡
1938年のある夜、まずオランダに逃亡し、ロッテルダムからアメリカに渡り、ニューヨーク市に着きました。
16歳になったベアは工場で働き始め、機械と技術に関心を持つようになり、専門的なことを学びたいと思うのでした。
そこでベアは給料の4分の1を費やし、ワシントンDCのNational Radio Instituteの通信教育を受けることにしました。
そして2年後に技術コースを修了し、ラジオとテレビのサービス技術者として働けるようになりました。
第2次世界大戦
技術者として経験を積み給料も安定してきた矢先、第2次世界大戦が勃発。
ベアはドイツに住んでいたことがあり、陸軍の情報部門で働くことになります。
無事、長い戦争が終わり、1946年ベアはようやく除隊。
ベアは再び、ニューヨークに戻ってくることができました。
ベアは少しの間ラジオやテレビを修理する仕事をしますが、もっとテレビのことを学びたくなりました。
そこで入学できる大学を探し、シカゴのアメリカンテレビジョン工科大学に入学。
無事、テレビ工学の学士号を取得し、ベアのテレビに情熱を燃やす人生が始まります。
却下されたテレビゲーム
1949年ベアはニューヨーク市の医療機器会社に勤めた後、電子機器会社の「Loral Electronics」で働きはじめました。
そこでは、IBM向けの送電検知装置などを設計していましたが、チーフエンジニアからテレビセットの製作を依頼されました。
それは高級なテレビセットで、他社よりも優れていて付加価値が必要でした。
そこでベアは「ゲームの追加」を提案します。
しかしそれは即却下となり、諦めました。
この提案したゲームが約15年後に実現するとは、この時は思いもしませんでした。
その後、結婚もしたベアは、軍需企業である「サンダース・アソシエンツ」で働き始めます。
1950~1955年の間にテレビの販売台数が、310万台から3200万台に一気に増えたのだ
そこでテレビゲームの案が出てきたわけじゃ
テレビゲーム開発の始まり
ある日、ベアはバス停で同僚を待っていました。
待っている間ふとテレビゲームについてのアイデアが頭に降りてきました。
ベアは思いつくままメモをとり、それを4ページの文章にまとめました。
そして以前、テレビゲームのアイデアを却下されたことを思い出します。
あの時よりは知識も技術も積んでいる。今ならきっと実現できる
ベアは「今度こそ成功させよう」と心に誓い、慎重に計画を進めました。
まずは試作機を作り、納得させる方法を取りました。
チェイスゲーム
早速チェイスゲームの回路を設計し、同僚のボブ・トレンブレイに真空管回路の構築を依頼しました。
そしてその年の12月には早くも試作機を作り上げ、資金調達の要になるハーバード・キャンプマンに触ってもらうことができました。
テレビ画面上で2つの正方形が追い掛け合うチェイスゲームを見たチャンプマンは、テレビゲームに可能性を感じ、資金援助を約束。
こうしてテレビゲームの開発は、サンダースのプロジェクトの一つとして認められるようになったのでした。
光線銃
1967年にはビル・ハリソンが加わり、光線銃を使ったゲームを作ることになりました。
そのために用意したおもちゃの銃は、あの「任天堂」の銃でした。
これを利用してできたゲームが「キツネと猟犬」です。
チャンプマンは大変満足しました。
ただ、サンダース社内にあるテレビゲーム開発への非難を無くさなくてはなりません。
そのため、副社長や取締役の前で改めてデモストレーションすることになりました。
そこでベアはゲームのデモストレーションは成功。
プロジェクトの継続も約束されたのでした。
ピンポンゲーム
4号機を作り始めた頃、マサチューセッツ工科大学卒のビル・ラッシュも加わり、ピンポンゲームを実現するアイデアを提供してくれました。
メンバーそれぞれ別の仕事で多忙になりながらも、連絡を取り合い、4号機が完成し、ピンポンゲームが完成しました。
次の5号機では、ボールが当たる衝撃に呼応した速度で跳ね返すことを目標としました。
これは困難を極め、開発はいったん中止となりましたが、ケーブル信号の同期には成功するという大きな成果を残しました。
だから、テレビゲームというおもちゃを作るプロジェクトは、社内の一部には理解してもらえなかったんじゃ
ブラウンボックス誕生
ベアは5号機ができた頃から、売り込みのための営業もするようになりました。
サンダースは軍関係のため、ゲームとは接点なく、販路は自分で開拓しなければなりませんでした。
ベアがまず訪れたのは、アメリカ最大のケーブルテレビ「テレプロンプター」。
社長の前でデモストレーションして好評でしたが、契約にはなりませんでした。
更に追い打ちをかけるようにサンダースも不況の影響を受け、1968年1月、プロジェクトは中断してしまいます。
プロジェクト再開
9月になり、ようやくプロジェクトは再開。
6号機では、ゲーム選択のためのスライドスイッチの設計に取り掛かり、10のゲームがプレイできるようになりました。
そしていよいよ7号機では、商品化するために外観を改良します。
安っぽく見えるアルミ製の枠組みに木目調の紙を貼り付け、「ブラウンボックス」と名付けました。
7号機がついに完成!
7号機がついに完成し、ベアはテレビメーカーに売り込むことにしました。
ベアは「RCA」を皮切りに「ゼニス」「シルバニア」などのテレビメーカーにデモストレーションしますが、なかなか交渉は成立しませんでした。
意気消沈していたベアに「RCA」の幹部であったビル・エンダースから連絡が入りました。
「マグナボックスでデモストレーションしないか?」
との誘いでした。
これが最後のチャンスだと意気込み、マグナボックスに挑みました。
そして、結果はGO。
ブラウンボックスはマグナボックスで販売されることになったのです!
オデッセイの発売
ブラウンボックスは「オッデセイ」と名前を変更し、1972年に約100ドルで販売開始。
オッデセイは単2電池6本で動かせますが、別売りの電源アダプターもありました。
テレビゲーム機本体にカードを差し込むとゲームがスタート。
カードはゲームの種類ごとにあり、差し込むと電源が入り、カードを変えることで回路が変わるようになっています。
2つのコントローラーがあり、つまみでボールになるスポットを上下左右に動かします。
リセットボタンで制御したり、スピード調整したりして遊びます。
ゲームは卓球、テニスなどのボールの打ち合いをするスポーツゲーム。
スキーや潜水艦、ネコとネズミの追いかけっこ。知育ゲーム。
別売りの光線銃を使ったハンティングゲームなど、ソフトの種類は豊富にありました。
テレビ画面にはゲームの背景を映し出すことはできなかったので、半透明のオーバーレイをテレビ画面に張り付けて対応しました。
またゲームに応じて使用するカードやサイコロやボードを付属しているものもありました。
それらは、その頃のコンピュータゲームにはない斬新さがあり、生産停止になる1975年までに約35万台を売り上げる大ヒットを記録することになりました!
アタリ現る
今までゲームはコンピュータでするものと思っていた人達に、オデッセイは衝撃を与えました。
その中には、後に「アタリ」を創業するノーラン・ブッシュネルがいました。
カリフォルニア州バーリンゲームの新作発表会場で、オデッセイを目の当たりにすると、「これだ!」とインスピレーションを受け、「ポン」を生み出すのでした。
ただ、最初は傍観していたサンダースも、似たようなゲームがちらほらと出始めると訴訟に踏み切ります。
アタリの「ポン」も訴訟されますが、70万ドルのライセンス料を払うことで、和解が成立しました。
ベアのその後
オデッセイの販売実績はサンダースが思ったよりも少なかったですが、特許によるライセンス料などで収益を得ました。
ベアはアタリに対抗するため、オデッセイを改良し、シリーズとして販売を続けます。
そして、1978年に集大成となる「オデッセイ2」を販売します。
キーボードが付いおり、サウンドやグラフィックでゲーム性もUP。
スコアも表示などにも対応した、かなり進化したテレビゲーム機となりました。
しかし、コントローラーの操作性やゲームの種類の数などアタリに及ばず、トップシェアを奪うことはできませんでした。
ベアはオデッセイの他にも「サイモン」や「マニアック」などの電子ゲームを製作し、人気となりました。
このようなベアの功績は、2006年にアメリカ国家技術賞を当時の大統領ジョージ・W・ブッシュより授与されるまでになりました。
2010年には発明家の殿堂入りも果たします。
テレビゲームという新たな地を開拓したベアは、2014年92歳で安らかな眠りにつきました。
ベアが灯したTVゲームという情熱の火は、今もまだ世界中を熱狂させ続けています。
だが、当時は多くの人に大きな影響を与えたのじゃ
そして日本では「セガ」や「タイトー」、そして「任天堂」へと続いていく
遊び心と発想力は人一倍あったと言えるな!
ということで、ゲームの続きやってきます!🔥
信じて、ゲームしまくります!