「ダンジョンズ&ドラゴンズ」をゲーム化した男?
だが、その前にRPGをコンピュータゲームにした人がいたんじゃよ
それが大人気で、コンピュータゲームにしたのだよ
その後にも新しいゲームを次々に作っておる!
劇作家を夢見たドン・ダグロー
ドン・ダグローは、1953年アメリカで生まれで、SFやファンタジーが大好きでよく読んでいる少年でした。
12歳になると、好きが高じて、遂に自分で小説を書きはじめます。
自分を表現する方法を見つけたダグローは、劇作家になるために、カルフォルニア州クレアモントのボモナガレッジに入学しました。
その寮には何とコンピュータが置いてあり、人生が別の方向へ動き出します。
そのコンピューターはPDP-10に繋がっており、しかもゲームも入って遊べるようになっています。
これは大学教授ポールエールが、理数系ではない学生にもコンピュータに接する機会を与えるために用意したものでした。
PDP-10は当時多くの大学や研究機関に設置され、多くの学生が研究に使用し、ソフトやハードの発展に大きく貢献していました。
ダグローも他の学生同様にコンピュータに夢中になり、ついにはゲームを作成したいと思うようになったのです。
しかしゲームのプロミングは禁止されていたため、見つからないように夜中や空き時間にこっそりプログラムを書く日々が続きました。
はじめてのゲーム制作
そうして、1971年にできたゲームは「ベースボール」。
ダグローは元々野球が大好きで、高校時代はボードゲームでも遊んでおり、それをゲームにしたいと思ったのです。
プレーヤーはバッターやピッチャーをコントロールできて、盗塁や代打なども可能でした。
このゲームは Digital Equipment Computer Users' Society ( DECUS ) により配布され、たちまち大学内で人気となりました。
このような野球シミュレーションゲームは、今までになく画期的だったのです。
スタートレック
ダグローのゲームで次に人気になったのは、1972年に作成した「スタートレック」。
人気のテレビシリーズから作られたゲームは、1971年にマイク・メイフィールによって作成されていました。
しかし、どうしても自分の理想とするスタートレックのゲームにしたいと、作成を開始します。
ダグローのバージョンではエンタープライズの動きを制御し、敵との戦い方により、その後のゲームの展開が変わるようになっていました。
このゲームをプレイした方からメールが来るようになり、次第に「ファン」も現れました。
ダグローはゲーム制作にますます没頭することになります。
ダンジョンズ&ドラゴンズ
ダグローは次に絶対作っておきたいゲームがありました。
それは、テーブルトップRPGゲーム「ダンジョンズ&ドラゴンズ」でした。
「ダンジョンズ&ドラゴンズ」は、参加者の一人一人がキャラクターを演じ、パーティーを編成しルールに基づいて冒険をしていきます。
ダンジョンジオラマと多面体のサイコロを使用して、宝物を見つけたり、敵を倒したり、経験値を増やしていきます。
キャラクターには能力値が設定され、ヒットポイントもあり、現在のRPGの基本となる要素が詰め込まれていました。
このゲームは2014年までに第5版が出るほど長い人気があり、コンピュータゲームが普及する前は特に支持を集めました。
「ダンジョンズ&ドラコンズ」をコンピュータで再現
この「ダンジョンズ&ドラコンズ」をダグローはコンピュータで再現したのでした。
完成したゲームは1975年「ダンジョン」という名前で発表されました。
ゲームの進行はテキストで進んでいきますが、コンピュータグラフィックスを取り入れた初めてのRPGゲームとなりました。
簡単なグラフィックスを取り入れることができたのは、画面がCRTモニターに切り替わったからでした。
CRTモニターでは、1秒間に約10文字から30文字を表示されることができたのでした。
アスタリスクの記号を使い、ダンジョンマップを書き、特殊呪文「インフラビジョン」の効果を表す工夫もしました。
経験値を獲得し、スキルが上がっていくのは本家の「ダンジョンズ&ドラコンズ」といっしょでしたが、進行にはかなり時間がかかるゲームともなりました。
テーブルトップではゲームするにはキャラクターの人数を集めなければなりませんでしたが、ダグローが作ったゲームは一人でも遊ぶことができました。
同じ頃にティム・アンダーソン達学生グループも「ダンジョンズ&ドラゴンズ」を手掛け、1977年に「Zork」を完成させています。
再びゲームの世界へ
ダグローは大学を卒業後大学院に進み、9年間大学に在籍しました。
しかし、ゲームを仕事にしようとはこれぽっちも考えていませんでした。
当時のコンピュータは家が何軒も買えるぐらいの高価な物であり、エアコンがある大きな部屋も必要でした。
コンピュータでゲームできるのは、学生でいる間の贅沢な遊びでしかなかったのです。
ダグローは劇作家の勉強を続け、教員資格も取り、大学を去った後は教師となりました。
その傍らスペイン語翻訳プログラムや「Killer Shrews」などのゲームを作っては遊んでいました。
AppleⅡを発売
その頃コンピュータは大きな変換期を迎えていました。
1977年、Apple がAppleⅡを発売します。
AppleⅡは机の上に置けるほどの大きさで、少し頑張れば買える価格でした。
グラフィック表示が標準であったAppleⅡは、ゲームするにはうってつけで、ユーザーが増えました。
またコンピュータゲームも1972年にマグナボックスが「オデッセィ」を発売して以来、アタリが「ホーム・ポン」を発売し、それぞれの後続機が発売されるようになっていました。
1970年後半の頃には、他の会社でもゲーム機を開発し販売していきます。
その中の一つに「マテル」がありました。
マテルはテレビゲーム機「インテレビジョン」を開発し、1980年に発売しました。
その年、ダグローはマテルのゲームプログラマーに転職し、働き始めましたた。
従業員はの5人でした。
ユートピア
ダグローがインテレビジョン用に作ったゲームは「ユートピア」で、1982年に発売されました。
2人のプレーヤーがそれぞれの島に家や学校などの建物を建て、人口が増えていくとそれに対処する方法を取っていくゲームです。
2人でスコアを競っても良いし、思い思いに島を都市化して楽しむこともできました。
戦闘ゲームでもスポーツゲームでもない、都市を作っていく新しいジャンルのゲームが誕生しました。
この新しいゲームは注目され人気を集めました。
ワールドシリーズチャンピオン
続いて1983年「ワールドシリーズチャンピオン」を完成。
複数のカメラアングルを使用した、3D表示も可能な野球ゲームです。
実際のメジャーリーガーの名前を使うことはかないませんでしたが、ダグローが過去に作った野球ゲームをはるかに上回るゲームとなりました。
複数のカメラアングルを使用するアイデアは、野球を見ていた時に思いつきました。
そしてエディ・ドンブロワーという頼もしい相棒の力も借りて、完成することができました。
その年のクリスマス商戦を狙っての販売でしたが、思いもよらぬできごとが起こります。
アタリショックの影響
ライバルとなるコモドールが、低価格でコモドール64を販売し、下取りキャンペーンも始め、他社のテレビゲーム機を壊滅状態にしたのでした。
インテレビジョンも販売が落ち込み、マテルはとうとうゲーム市場から退却します。
その頃インテレビジョンのゲーム開発ディレクターとなっていたダグローは、「Blue Sky Rangers」と呼ばれるチームを率いていました。
アタリショックと呼ばれるこの現象は、ビデオゲームの流行は終わりだと言われ、暗黒の時代を迎えます。
この危機に手を差し伸べてくれたのは、エレクトロニック・アーツの創業者トリップ・ホーキンスでした。
家庭用コンピュータゲームを制作しているエレクトロニック・アーツは、この状況のなかでも優秀なゲームプログラマーを探していました。
映画とゲームの共通性
新しい環境に身を置いたダグローは、まずはコモドール64向けのゲーム制作を開始しました。
しかし、コモドールが衰退していくと、AppleⅡに焦点を移し、厳しい時代を乗り切りました。
その間、「Realm of Impossibility」や「Adventure Construction Set」などのヒット作を生み出し、「ユートピア」や「ワールドシリーズチャンピオン」の続編も制作しました。
またこの頃から、多くのアーティストと交わるようにもなります。
1987年にはブロードバンド社に移り、役職に就き、ゲームを監督する役に回ります。
ダグローはスターウォーズのRPGの制作に関わり、映画とゲームの共通性を感じ、ゲームに対しての創造性がますます高められていくのでした。
自分が創造するゲームを作りたいという欲求を満たすため、とうとうダグローはブロードバンドを辞め、自分の会社を設立することを決意します。
どれか一つ欠けてもだめだ
Stormfront Studios
1988年、ダグローはカルフォルニア州サンラファエルでゲーム開発会社「Stormfront Studios」を設立しました。
優秀なスタッフが集まり、会社の名前を一気に有名にするゲームが誕生しました。
そのゲームの名前は「Neverwinter Nights」。
「Neverwinter Nights」はオンラインサービスの会社AOLとタッグを組んで、制作されました。
ダグローは一人でプレイするRPGを、オンラインで多くの人が参加しプレイするMMORPGにすることを思いつき、オンラインゲームを提供しているAOLが最適だと考えたのでした。
この大規模なプロジェクトの成功のため、ゲーム開発会社「Beyond Software」に協力を仰ぎ、「Stormfront Studios」のキャスリン・マタガをプログラマーに任命してチームを組みました。
最初のMMORPG
18ヶ月をかけて完成したゲームは、グラフィックを表示する最初のMMORPGとなりました。
「Neverwinter Nights」はプレーヤーが経験値を積みスキルを上げていくRPGの要素は変わりませんでしたが、オンライン上でチームを組み冒険し、モンスターと戦う楽しさがプラスされました。
ゲームイベントも行われ、熱心なファンが増えていきます。
この成功はダグローを満足させ、1997年のサービス終了時には、115,000人のユーザーがいました。
そしてMMORPGを前進させたと、2008年に第 59 回テクノロジー & エンジニアリング エミー賞で表彰されます。
「Stormfront Studios」は他にも「NASCAR Racing」や「タイガー・ウッズ PGA ツアーゴルフ」など他社をリードするゲームを制作し、ゲーム業界を発展させ盛り上げていきました。
2000年を過ぎると、「ロード・オブ・ザ・リング: 二つの塔」や「スパイダーウィック クロニクルズ」など映画に付随したゲームを制作しています。
ダグロー自身は1995年、現場から退きCEOとして会社を見守るようになりました。
ドン・ダグローの挑戦
成長を続けてきた会社ですが、2008年に発行元のシエラエンターテイメントの閉鎖により、「Stormfront Studios」も幕を閉じます。
ダグローはこれまで55本のゲームを作ってきました。
はじめは一人でストーリーを考え、プログラムを書き、グラフィックやサウンドを作り、何役もこなさなければなりませんでした。
やがてハードウェアやソフトウェアが向上し、ゲームに携わる人も増えていき、ダグローの周りには優秀な人材が集まってきました。
もう一人ではなく、それぞれの能力を生かしたチームとなってゲームが作られるようになりました。
それはダグローが大学でゲームのプログラムを書いていた時には思いもよらぬことでした。
ダグローは新しいハードウェアが出る度に、どのようにしてこれで人々を感動させ、どんな大きなことをしようかと考えていました。
そして映画と同じように、ゲームが終わった後に作品について語り合って欲しいと考えていました。
いかなる時にも挑戦する気持ちが、今までにない新しいゲームを作る原動力だったのです。
そして現在、ゲームが終わった後に作品について語り合うことが当たり前の時代になりました。
これも、ゲームをネクストレベルに押し上げたダグローの功績の1つと言えるでしょう!
ドン・ダグローのような人物が情熱を注ぎ、業界のレベルを一気に引き上げた結果といえるな!
よし、では、先日企画したゲームを創ってみるか!
これはまだレベルが足りずスキルが習得できてませんね
一回やってみないと分からんじゃろうが!
ふざけてないで、さっさと取り掛かるんじゃ!