
【コピーアンドペーストの生みの親】ラリー・テスラー
2022.11.11
コピーアンドペーストを作ったラリー・テスラー




これができたおかげでどんなにパソコンが使いやすくなったことか…


そこで普通の人にも使えるようにするためにとラリー・テスラーがコピペを作り出したのだ!!


グラフィカルユーザーフェイス(GUI)との出会い
ラリー・テスラーは、アメリカのニューヨークブロンクスで1945年生まれました。
1961年ブロンクス化学高等学校を卒業後、スタンフォード大学でコンピューター科学を学びます。
大学卒業後スタンフォード人口研究所に入り、初心者にプログラミングについて理解してもらうためのプログラミング言語「Compel」を開発しました。
またミッドペニンシュラ フリー ユニバーシティでは、「IBMの独占を終わらせる方法」、「コンピューターの今」などの講義もしていました。
パロアルト研究所での開発
1973年、テスラーはXeroxの研究開発企業であるパロアルト研究所(PARC)に勤務します。
パロアルト研究所は1970年に設立され、コンピューター関連の開発を行っていました。
テスラーがパロアルト研究所に入った年、世界で初めてグラフィカルユーザーインターフェース(GUI)をベースにしたオペレーティングシステムのパソコン「Alto」が起動しました。
「Alto」は小型なキャビネットに納められ、ディスプレイとマウス、キーボードが付いたコンピューターでした。
「Alto」のオペレーティングシステムのため1972年にはアラン・ケイが発案した「Smaltalk」の開発が始められていました。
Smaltalk は「オブジェクト指向」のプログラミング言語であり、その言語を使用して構築したプログラミング環境のことです。
テスラーはティム・モットとともにこの言語を使用した文章作成ソフトウェアの開発を始めました。



アラン・ケイ、ロバート・テイラー!



モードレスなGypsyでコピーアンドペースト
テスラーとモットは、既にあった文章作成ソフトウェア「Bravo」をもとに開発を進めます。
「Bravo」は、入力してディスプレイに写ったものがそのまま印刷されるWYSIWYG(アクロニム: ウィジウィグ)とした初めての文書作成ソフトウェアで、既に「Alto」に搭載されていました。
しかし「Bravo」は操作が煩雑で、一般的なユーザーには使いやすいとは言えませんでした。
「Bravo」では、挿入モードやコピーモードなどはじめにモードを設定する必要があり、モード設定中は他のドキュメントを開くことができず、ドキュメント間でのコピーや置換が困難だったからです。
そこでテスラーはモードを無くし、少ない操作で目的の作業ができることを目標としました。
ヒントはTVEDITとNLSに有り
テスラーはモードレスにするためのアイデアを考えていると、過去に季刊カタログの貼り付け作業でもっと楽な方法はないだろうかと考えたときに見た「TVEDIT」を思い出しました。
「TVEDIT」は1962年ブライアン・トリバーがDEC PDP-1 コンピューター用として開発し、後にペンティ・カネルバによって改良されました。
モードはありましたが、2段階操作でコピーや置換などができて、エラー回復コマンドもありました。
テスラーはこれを新しい文章作成ソフトウェアに応用させるためには、「NLS」(マルチユーザー連携システム)の構文を使用することが必要と感じました。
「NLS」はマウス、ハイパーテキストなどの機能でグラフィカルユーザーインターフェースを実現としたシステムで、拡張性はまだまだあるとテスラーは考えていたのでした。
テスラーは偶然にも「NLS」の開発に関わったジェフ・ルリフソンと知り合い、情報を交換し合うようになりました。
この頃パロアルト研究所では、「NLS」は技術仕様やソースコードに使用されていましたが、ドキュメント編集には向かないだろうと思われていました。
しかしルリフソンのユーザーインターフェースの変革をしようとする強い意志もあり、テスラーたちの開発は一気に進みました。
こうしてついに1975年文章作成ソフトウェア「Gypsy」が完成。
「Gypsy」は公開される前にユーザーテストして、パソコンを今まで使ったことがない人でも5分で簡単に文章を入力できました。
それは操作が実に簡単だったからです。
「Gypsy」は、今では当たり前になっている機能が備わっています。
- 文字の間をクリックすると点滅して、そこから入力が始められる。
- 単語をダブルクリックして選択する。
- カット&ペーストの2つの手順でテキストを移動。
- コピー&ペーストの2つの手順でテキストをコピーする。
- ピクトグラムを使ったアイコン
これらの機能は、やがて文章作成ソフトウェア以外にも用いられるようになり、一般ユーザーにもパソコンが受け入れやすい環境を整えてくれました。
ポータブルコンピューターNoteTakerとイーサネット
パロアルト研究所でテスラーは、ダグラス・フェアバーン、アデル・ゴールドバーグとポジションコンピューター「NoteTaker」の開発もしています。
この開発には、ソフトウェアで記述され機能するイーサネットプロトコルを初めて設計に含みました。
旅行先でテストも行いましたが、「Alto」の開発が主になり、試作機が約10台作られる程度で終わりました。
スティーブ・ジョブズの訪問
1979年スティーブ・ジョブズがパロアルト研究所を訪れました。
ジョブズはテスラーから「Alto」のデモンストレーションを見せられ、グラフィカルユーザーインターフェースがこれからのパソコンには必要だと強く感じました。
そしてジョブズはテスラーに
あなたは金脈の上に座っていながら、なぜこの技術で何もしようとしないのか。世界を変えることができるのに
と告げるのでした。
その頃「Alto」に搭載されるはずだった「Smaltalk」が排除され、アラン・ケイなどの開発スタッフがパロアルト研究所から去っていきました。
テスラーも自分が開発したものが広く活用されないことに虚しさを感じていました。






AppleでのLisaとNewtonの開発
1980年、テスラーはパロアルト研究所を辞めAppleに入社します。
Appleでは、グラフィカルユーザーフェイスのコンピューター「Lisa」の操作を簡単にするため、プログラム言語「Pascal」の拡張の開発を担当しました。
「Pascal」の作成者であるニコラス・ワースとともに1985年「Object Pascal」を完成させます。
しかし「Lisa」は1983年オフィス向けに販売されますが、高価な上に動作が遅く不評でした。
そこでAppleは次に開発していた「Macintosh」に、「Object Pascal」をMacAppアプリケーションフレームワークのプログラミング言語として使用しました。
苦難な開発Newton
テスラーが次に取り組んだのは、携帯情報端末「Apple Newton」。
ノートぐらいの大きさに高度な性能を詰め込んだコンピューターを作り出さなければなりませんでした。
何よりも今までなかった手書き入力の開発もありました。
テスラーは開発メンバーたちとアイデアを出し合い議論が続きました。
限られた大きさに使用するハードウェア、ソフトウェアに、テスラーは自分の意見を出し、時には譲歩しなければいけないこともありました。
ARMアーキテクチャ
「Apple Newton」では高度なグラフィック操作を可能にするため、これまでのプロセッサよりも高度で低電力なプロセッサが必要でした。
テスラーはイギリスのエイコーン・コンピューターの「ARMアーキテクチャー」に注目し、ともに開発できるように、Appleとエイコーン・コンピューターが出資した新会社 Advanced RISC Machines の設立に尽力しました。
こうして最新プロセッサ ARM610 が「Apple Newton」に使用されました。
また「Apple Newton」では手書き入力の機能を取り入れることにしましたが、技術的には未熟であり、何度もデモンストレーションを繰り返しました。
他にも多くの問題が山積みし毎日ハグと闘い続け、ストレスで倒れてしまうメンバーが出てしまう事態にも陥りました。
このような苦労の末1992年「Message Pad」とも呼ばれた「Apple Newton」が公開されました。
- メモも図形も手書き入力
- 通貨変換などできる計算機
- 赤外線ポートで同期ができるアドレス帳
- 「to do」リスト管理もできるスケジュール帳
このように今までにない機能がある携帯情報端末機は発売前の広告もあり、大きく話題をさらいました。
しかし、次第に「価格が高い」、「手書きが正しく入力されない」、「動作が遅い」と言った不評が多くなり、改良を重ねましたが、1998年販売終了となりました。
「Apple Newton」の発売と同じ頃にテスラーは開発メンバーから離れました。
次にテスラーは学童用のプログラミング言語「Cocoa」を開発した後、1997年Appleを退社しました。



スティーブ・ジョブズはAppleに戻った後は、この「Apple Newton」をお手本にして、iPadやiPhoneを作っているからな!


モードレスを続けるテスラー
テスラーは退社後会社を設立し、教育用プログラミング環境「Stagecast Creator」を開発しますが、うまくいきませんでした。
2001年にはAmazonにエンジニアリング担当副社長として入社し、ショッピング エクスペリエンス担当副社長に昇進し、ショッピングサイトのインターフェース化に貢献しました。
2005年からはYahooでユーザーエクスペリエンスおよびデザイングループの副社長として働きます。
2008年にYahooを退職すると、コンサルタントしてシリコンバレー企業のユーザーインターフェースの設計などを支援するようになりました。
シリコンバレーで成功したら、その資金を新しいシリコンバレーに資金提供し、育てていくことが必要であるとテスラーは思っていたのでした。
テスラーは生涯にわたってこだわってきたのは「モードレス」でした。
自分の車のナンバーに「NOMODES」、Twitterのアカウントも「@nomodes」、ホームページももちろん「nomodes.com」と徹底したこだわりを見せました。
またテスラーは、グラフィカルユーザーフェイスについて次のように語っています。
私はしばしば「Macintoshのグラフィカルユーザーインタフェースの父」と呼ばれているが、そうではない。ただ、遺伝子検査をすれば、たくさんいるMac GUIの祖父ということにはなるかもしれない。
2020年2月16日テスラーは74歳で永い眠りにつきました。



ところでミツオカ、今日はひたすらコピペで何をしていたのだ?






「しゃべる猫じじい譲ります」とは!

コピペって便利だなと思ってたら、いろんなサイトにコピペしちゃってた!テヘッ!



書いた人はこんな人

- 「好きを仕事にするエンジニア集団」の(株)ライトコードです!
ライトコードは、福岡、東京、大阪の3拠点で事業展開するIT企業です。
現在は、国内を代表する大手IT企業を取引先にもち、ITシステムの受託事業が中心。
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