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本当は歌手になりたかった!?CADの生みの親「パトリック・J・ハンラティ」

CADの生みの親はだれ?

にゃんこ師匠にゃんこ師匠
うーん、この曲線美がたまらん~!
ミツオカミツオカ
前から作っていた飛行機の模型ですね
にゃんこ師匠にゃんこ師匠
図面から書いて、部品も苦労して作った最高傑作だ…!🔥
ミツオカミツオカ
図面まで!?
にゃんこ師匠にゃんこ師匠
他の模型の図面を参考にして手書きで書いたから大変だった
ミツオカミツオカ
手書き…
そういうときってCADを使うのではないですか?
にゃんこ師匠にゃんこ師匠
確かに製図を書くのならCADだな。
ちなみに、今のCADの元となるものを作ったと言われるのはパトリック・J・ハンラティじゃ
ミツオカミツオカ
今日はCADのお話をお願いしますー!

プログラミングとの出会い

CADの生みの親と言われたパトリック・J・ハンラティの物語をお届けします。

ハンラティは、1931年に生まれ、4歳のときに両親が離婚しました。

母と暮す生活は決して裕福ではありませんでした。

幼いハンラティはバーの外で歌を歌ってお金をもらい、それで古本を買うのを楽しみにする少年でした。

その頃のお気に入りの本は「シェイクスピアの子羊の物語」でした。

歌手になりたかった

歌が好きだったハンラティは歌手になることを志しました。

しかし、朝鮮戦争が起きると徴兵されてしまい、人生一変してしまいます。

空軍に入隊した矢先、墜落事故に遭ってしまったのです。

そのことで、肺と声帯が傷つき、夢であった歌手になることを諦めることになりました。

それでも生きるために何か仕事をしなければなりません。

プログラミングに出会う

ハンラティはゼネラル・ダイナミクスで遠隔砲塔砲手として職を得ることができました。

そこで、仕事のための授業でアナログコンピュータを学びことになるのですがハンラティはここで頭角を現し、クラスを率いるまでになりました。

飛行機の離陸計算のためのプログラムなどを作り、プログラミングについて経験を深めていきました。

ハンラティはすっかりプログラミングにハマってしまい、プログラミングするのが楽しくてしかたなくなりました。

そんなハンラティは、ある日ゼネラル・エレクトリックがコンピュータ事業を始めるという記事を目にしました。

早速応募して、幸運にも採用されることになります!

磁気インク文字認識(MICR)のE-138フォント

1957ゼネラル・エレクトリックに入社したハンラティの初めての仕事は、スタンフォード研究所と共同で行うプロジェクトで、銀行小切手の文字を機械が読み取れる文字にする開発でした。

読み取る機械はゼネラル・エレクトリックが既に開発した磁気インク文字認識(MICR)です。

ハンラティたちは、文字の濃さや紙の状態などにも左右されない文字を試行錯誤しながらMICRを使って作成しました。

できた文字はE-138フォントです。

0から1までの数字と記号がセットになっているフォントは、文字が薄かったり、紙にしわがあったりしても文字認識でほとんどエラーが出ることなかったのです。

この技術が認められ、MICRとともに1958年に米国銀行協会に採用されました。

NCプログラム PRONTO

次に開発したのは商用コンピュータ数値制御のプログラミング言語「PRONTOでした。

ハンラティが初めて作ったプログラミング言語です。

その後にPRONTOを使用したMTD (Machine Tool Director ソフトウェア)を開発しました。

この頃の部品製造は、工作機械に手でパンチした紙テープやカードをセットして動かし作っていました。

作ってみないとどう動くか分からないことや、ミスを見つけにくく不便という課題がありました。

MTDは部品を加工するための動きをプログラミングし、パンチカードを作成して、工作機械の動きを制御することができました。

このような仕組みはNC(数値制御)プログラムと言われ、PRONTOは先駆けとなったのでした。

にゃんこ師匠にゃんこ師匠
ちょうどその頃マサチューセッツ工科大学で、数値制御プログラミング言語「APT」が作成され、ハンラティと同様のNLプログラムの開発をしていたのだ
ミツオカミツオカ
ハンラティは大学は出ていなかったのですよね?
にゃんこ師匠にゃんこ師匠
そうじゃ、ほとんど独学と実務経験じゃ。
かなり勉強したのだろうな…!
そしてもう一つマサチューセッツ工科大学のイバン・サザランドが「Sketchpad」を開発していたのだ
ミツオカミツオカ
ライトペンでコンピュータにお絵かきできる初めてのツールですよね
にゃんこ師匠にゃんこ師匠
「Skechpad」は図が描けて移動やコピーなどもできるので、製図作成としても使われ、最初のCADとも言われている

Design Augmented by Computer(DAC)の開発

1961年、ハンラティはゼネラル・モーターズ・リサーチに転職、DACの開発に関わります。

ゼネラル・モーターズ・リサーチでは、製品のプロセスでボディなどのパーツやそれに関わる詳細な部品が統一された製図でないことに気が付きました。

そのため製図を再度書き直さないといけない手間などが発生していました。

この問題に対処するため、統一した製図を作図するシステムを作る必要があったのでした。

製図をデジタルデータとし、コンピュータ上でグラフィックに表して回転や拡大などの加工ができるようにし、プリントアウトも可能とすることを目標としました。

しかし、開発には大型コンピュータIBM 704を使用しましたが、メモリーも少なく困難が待ち受けていました。

画像の連続表示

DACでは画面上でライトペンを操作して図を描画するようにしました。

描いた図がすぐに消えてしまうのでプログラムにループ処理を加えましたが、その間、別のタスクが実行されない問題が起きてしまいました。

そこでもう一つハードディスクを用意して、タスクが平行で実行されるようにしたのでした。

製図の印刷

製図の印刷はメモリーが少ないため、分割してロードし、印刷するプロッタにはローラを付けて移動できるようにして大きな紙の印刷に対応しました。

製図の読み取り

既存の手書きなどの製図の読み取り方法については、透かしのような手法を取り入れています。

製図を透明な紙に印刷して、それをコンピュータのディスプレイの前に置き、製図の線によって遮られた光をもとにドッドがスキャンしていくのでした。

ハンラティの担当は、5軸フライス盤を使い、決められた形に加工できるようにプログラミングを作ることでした。

このようにして開発したDACは、既存の製図変更が可能になりました。

また、3Dの変換も可能になり、DAC-1と名前を変更され1962年公開されました。

CAD/CAMの製図システムの誕生

DAC-1は実証実験に成功し、IBMの「Project Alpine」でシステムを商品化しますが、それはIBMの新しいコンピュータIBM 360で使用するターミナルやスキャナーでした。

DAC-1は新しいコンピュータに対応するためには、まだまだ改良が必要でした。

そのため、DAC-1の開発は1967年に終了してしまいました。

DACの開発に関わったことにより、ハンラティは自分のプログラミングに自信を持ちました。

そして、独立することを決意します。

Integrated Computer Systems ICS)の失敗

1970年、ハンラティは中途半端で終わったDACを自分の力で完成させようとICSを設立しました。

その傍らカルフォルニア大学アーバイン校で研究を始め、1973年博士号を取得しました。

ハンラティは新しいシステムにあまり使用されていないプログラミング言語Temporal Process Language (TPL)を採用しました。

しかしこれが大失敗。

一部のコンピュータでしか使うことができないCADシステムは全くと言っていいほど注目されなかったのです。

特定のアーキテクチャに密接に結び付いたものを生成してはいけません。また、競合他社であっても、他のシステムと適合できるように常にオープンにしておく必要があります

とハンラティは後にこの時のことを述懐して語っています。

Automated Drafting and Machining (ADAM)の成功

1971年に心機一転し、ハンラティは新しい会社「Manufacturing and Consulting Services (MCS)」を設立しました。

次は IBMが開発した数値計算や科学計算に適したプログラミング言語「Fortran」でシステムを書きました。

Fortran は当時のソフトウェアでは多く使われていて、ほとんどのコンピュータに対応していました。

ハンラティの新しい製図システム「Automated Drafting and Machining (ADAM)」は大きな教訓を経て完成しました。

ADAM「コンピュータ支援設計」のCAD「コンピュータ支援製造」のCAMが結びついた初の市販パッケージソフトウェアでした。

CADは製品を作るためのパーツやそのための部品の製図をコンピュータで書いていきます。

ライトペンを使い製図を書いていきますが、「修正・変更・追加」が可能で、手書きのときのように一からやり直す必要がなくなり、作業がかなり効率化されました。

CAMは、CADで書かれた製図をもとに、製品が工作機械で正しく作られるように、NCプログラムを作成します。

この二つが結びつくことにより、人的ミスや製品のバラつきが少なり、作業効率は上がり、製造の生産性も上がることになります。

ハンラティはADAMを大手の航空メーカー、マイケルダグラスなどに販売する一方、他のソフトウェア会社にライセンスの提供もしていました。

ちょうどその頃ミニコンピューターが企業で徐々に使われるようになり、仕事に関係するソフトウェアに関心が出てきていました。

今までは一部の航空業界や自動車業界でしかなかったCADが世の中に広がるキッカケになっていくことになります!

にゃんこ師匠にゃんこ師匠
ADAMが成功したおかげで、製品の名前は違ってもあっちこっちでハンラティのコードは使われておる!
50年経っても、元をたどれば約70%がADAMにたどり着いておるのじゃ!
ミツオカミツオカ
ADAMの子供に孫、ひ孫、玄孫…
みんな親戚同士みたいなものですね
にゃんこ師匠にゃんこ師匠
ハンラティがCADの親と言われる所以だな
ミツオカミツオカ
納得です!

ADAMのその後

ADAMは改良を重ね、AD-2000、Anvil-4000と名前を変えて販売されていきました。

パーソナルコンピュータの時代になると、それに対応したANVIL-1000MDもリリースしました。

1986年にリリースしたANVIL-5000は、Unixワークステーションに対応し、時代を先取りした高性能なソフトウェアとしてヒット作になりました。

1987年の売り上げは1000万ドル、従業員も100人になり、1989年の売上は2000ドルに達しました。

しかしその後は他社との競争が年々激しくなり、会社も段々と縮小していくしかない状況になりました。

それでもハンラティはCAD/CAMのプログラミングについての問題を常に考え、停滞を嫌い、向上することに尽力していました。

2019年に息を引き取るまで、ハンラティのプログラミングに対する情熱は続いたのでした!

ミツオカミツオカ
ハンラティがもし歌手になっていたら、CADはどうなっているでしょうか?
にゃんこ師匠にゃんこ師匠
時代の流れで誰かが作っていたというのが正直なところだ。
だが、ハンラティのようにずっと続くコードになったかは分からんな
ミツオカミツオカ
それだけ完成されたものを最初に作り出したハンラティはすごいですね
にゃんこ師匠にゃんこ師匠
そうじゃ!世の中に新しい価値を生み出したのだからな!
どれ、ワシはこの模型をアップデートさせるとするか
ミツオカミツオカ
あ、実は私が見よう見まねでCADで作ってみました。
にゃんこ師匠にゃんこ師匠
どれどれ…むむむ!
この曲線美!!ワシのより良いかもしれぬ…!
ミツオカミツオカ
作業時間は1日でした。
にゃんこ師匠にゃんこ師匠
ワシはこれに3ヶ月費やしたぞ…
ミツオカミツオカ
アナログもいいですが、文明の利器も賢く使わないとですよ

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