「オズボーン効果」の語源になった人は誰?
SNSで発表しちゃお~っと!
現行商品は一ヶ月前に発売したばかりじゃないか!
これをオズボーン効果という!
約40年前に最初のポータブルコンピュータ「Osborne」を販売した人物じゃ!
今日は「Osborne」を作ったアダム・オズボーンの話をするとするかの~!
タイ生まれインド育ちのエンジニア
1939年、アダム・オズボーンはタイのバンコクで産声をあげました。
父はイギリス人で母はポーランド人との間で、幸せな生活を送っていたある日、第2次世界大戦が勃発。
戦争が始まると母親と一緒に南インドに移住することになりました。
終戦し、1950年11歳になったオズボーンはイギリスに移住。
バーミンガム大学に進学し、その後は、デラウェア大学で博士号を取得します。
デラウェア大学ではプログラミング言語を学びました。
卒業後はシェル石油に就職しましたが、3年後には解雇されてしまいました…
出版社「オズボーン・アンド・アソシェンツ」
無職になったオズボーン。
大学で学んだコンピュータの知識を生かしたいと思い考えます。
出版社「オズボーン アンド アソシエイツ」を設立し、コンピュータ関係の本を執筆し出版することにしました。
1979年には、教育関係の出版社「マグロウヒル」に買収されてしまいますが、その後も執筆は続けました。
そして発表した、「マイクロコンピュータ入門」は、約30万部売り上げる大ヒットを記録したのです!
Windows95が出たとき初めてマニュアル本を買った人も多かったのでは…
ホームブリュー・コンピュータ・クラブ
執筆業のかたわら、「ホームブリュー・コンピュータ・クラブ」のメンバーとなり、積極的に会合に出席していました。
「ホームブリュー・コンピュータ・クラブ」は、ゴードン・フレンチとフレッド・ムーアが世界初のパーソナルコンピュータ「Altair 8800」について語るため、集まったことがキッカケにできたクラブでした。
クラブの会合では、パーソナルコンピュータについて語りました。
毎回、コンピュータやプログラミングについての可能性を考え、アイデアを交換する熱い会合で心が躍るようでした。
オズボーンはこのクラブに大きな刺激を受け、自分でコンピュータを開発し、販売したいと考えるのでした!
アンテナ広げて情報収集していたのでしょうね
Osborne の成功と失敗
1979年、オズボーンはついに「オズボーン・コンピュータ」を設立。
「ゼロックスNoteTaker」を参考に、ポータブルコンピュータの開発をはじめました。
「ゼロックスNoteTaker」は研究用に1978年開発され、キーボードやモニターを一つのケースに収め、持ち運びができるコンピュータとして注目されました。
オズボーンは新しいポータブルコンピュータの設計を、ホームブリュー・コンピュータ・クラブの設立メンバーであるリー・フェルゼンスタインに依頼することにしました。
フェルゼンシュタインは、「ペニーホイッスルモデム」やビデオディスプレイモジュールボード「VDM-1」を設計し、コンピュータ技術に変革をもたらすスペシャリストでした。
オズボーンは、コンピュータの本を書くために集めた知識と、ホームブリュー・コンピュータ・クラブで取集したアイデアをもとに開発を進めました。
そしてついに、1981年に「Osborne 1」を完成し発売しました。
「Osborne 1」は、「Note Taker」よりも半分の軽さの約10kgで、航空機の座席の下に納まるほどの大きさでした。
底面にキーボード、蓋になる面には5インチのモニターに二つのフロッピーディスクを配置しました。
メモリーは64㎅、OSにはCP/M 2.2を採用し、ソフトウェアには当時人気のワープロソフト「WordStar」や表計算ソフト「SuperCalc」を備えました。
「Note Taker」より軽くはなったと言っても約10kg。
まだまだ重く、果たしてこれで売れるのかとフェルゼンスタインは危惧しました。
しかし、蓋を開けてみたら、約8ヶ月で当初の計画を大きく上回る11,000台を売り上げる大ヒットを記録。
オズボーンは大きな成功を掴みました。
重たくて不格好な「Osborne 1」でしたが、1795ドルという価格は、「IBM PC」などのパーソナルコンピュータよりもかなり安く、購入してすぐに使用できる便利性に多くの人は惹かれたのでした。
オズボーン効果
この成功に気を良くしたオズボーンは、次のコンピュータ「Osborne Executive」を発表します。
「Osborne Executive」は「Osborne 1」の不便なところを改良し、モニターは7インチ、他のブランドのディスクの読み込みも可能にしました。
しかし、ここでオズボーンは大きな失敗を冒してしまいます。
「Osborne Executive」は、まだ販売される段階になっていなかったのに発表してしまったのです。
「Osborne 1」よりも優れた「Osborne Executive」を待つ客が多くなり、発売中の「Osborne 1」は買い控えされ、売り上げは一気に落ち込んでしまいました。
ようやく「Osborne Executive」が発売される頃には、他社も似たようなポータブルコンピュータの発売されはじめ、客を奪われていきました。
次第にケイプロ・コーポレーションの「Kaypro」やIBMの「Compaq Portable」などの機種が人気を集めるようになってきます。
それに対抗すべき、オズボーン・コンピュータも1983年「Compaq Portable」を発表しますが、時すでに遅し…
発売前に倒産してしまいました。
このオズボーン・コンピュータの倒産は、マーケティングの失敗例として「オズボーン効果」と言われるようになりました。
これがノートパソコンになり、タブレットやスマホになっていくのじゃ
ペーパーバック・ソフトウェア・インターナショナル
オズボーンは会社の倒産にめげませんでした。
1984年、ジョン・C・ドヴォラックと共同で回顧録を執筆し出版し、ベストセラーとなりました。
そして新しい会社「ペーパーバック・ソフトウェア・インターナショナル」を設立したのでした。
オズボーンは「ソフトウェアは本の価格と同じぐらいであることが理想」だと、低価格のソフトウェアの販売を始めました。
データベース「VP-info」やワープロソフト「Paperback Writer」、スプレッドシート「VP-Planne」など、当時必要とされたソフトウェアを中心に発売します。
しかし、1987年「VP-Planne」が「Lotus 1-2-3」と酷似しているとロータス社から訴えられてしまいました。
これにより「ペーパーバック・ソフトウェア・インターナショナル」の信頼は落ち、売り上げが落ち込んでしまいます。
最終的には著作権を侵害していると判決が下り、会社は解散することになってしまいました…
だから、もっとみんなが便利なソフトを使えるようにしたかったのだ
オリジナルティがあれば良かったのに…
だから他とは違うことを明確にしないといけないのだな
安住の地へ
1992年、不屈の男オズボーンは、人工知能分野の会社「Noetics Software」を設立します。
しかし、脳卒中がしばし起こってしまう状態になってしまい、オズボーンを苦しめるのでした。
そこでオズボーンは、思い出の地であるインドへ移住することにしました。
幼い日々を過ごしたインドの風景や匂いが、オズボーンを慰めてくれます。
約10年間の闘病後、2003年彼は穏やかに息を引き取りました。
そして、成功したあとが大切と言えますね
じゃあ、さっきの新商品をSNSにアップして、がっぽり稼いじゃおっと!
今回の記事で何を学んだんじゃ!