コンピュータの父はだれ?
ジョン・フォン・ノイマンの記事
バベッジ 数表の機械化を思いつく
バベッジは、1791年12月26日、ロンドンの中産階級の家に生まれます。
幼いころより、複数の家庭教師をつけるなど、両親は、教育に熱心だったといいます。
1810年、18歳のバベッジは、ケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジに入学します。
ですが、ケンブリッジ大学の数学教育のレベルの低さに失望します。
それは「ニュートンの時代から何も進歩していない」との言葉を残すほどでした。
「解析協会」を設立
その結果として、1812年、友人らと共に「解析協会」を設立します。
個人で、数学の研究を開始するのでした。
間違いだらけの対数表がヒントに
その「解析協会」の自室で、間違いだらけの対数表を見て「機械に計算をさせればいい」と思いつくのです。
バベッジは、それ以後、「熟練していない計算手を完全に機械に置き換えれば、より素早く、間違わずに数表を作れる」というアイデアにとりつかれました。
蒸気機関を動力に
さて、彼の存在が注目されるのは、28歳の頃になります。
1820年に創立された『王立天文学会』の創立メンバーに、バベッジが名前を連ねていたからです。
※『王立天文学会』とは、天文学研究を支援するために設立された学術団体です。
まだ28歳の青年が、イギリスの知識階級に於いて、ある程度の地位を獲得していたのです。
そして、1822年、30歳になったバベッジは、「蒸気機関を利用した数表の機械化」を思い立ち、その考えを、王立天文学会に提案しました。
蒸気機関の動力を計算機に持ってこよう!
「数表機械化の動力源に、蒸気機関を応用する」というバベッジの着想は、現在の我々から見ると、かなり奇妙なものに思えます。
時代的には
- 1765年にジェームズ・ワットが、新型の蒸気機関を考案。
- 1807年には、ロバート・フルトンが設計した蒸気船クレルモン号が、アメリカでハドソン川を航行。
- 1814年には、ジョージ・スティーブンソンが、蒸気機関車を設計。
そんな中、蒸気機関を動力源として応用するのは、時代の最先端を行く考えだったのです。
難航する計算機械の開発
バベッジは、当時使われていた数表の間違いの多さに、うんざりしていました。
そう思ったのは、バベッジだけではなかったのかもしれません。
彼の天文学会への提案は、多くの人々の支持を得ることが出来たのです。
その結果、イギリス政府に対して、正式に開発助成金の申請が行われました。
1823年6月、バベッジに対して1500ポンドの助成金が与えられます。
階差機関(ディファレンス・エンジン)
助成金を得ることができ、早速、計算機械の開発が開始されました。
計算機には、『階差機関(ディファレンス・エンジン)』と名付けられます。
しかし…開発は難航を極めました。
概念としてはシンプルなものでしたが、機械的には非常に複雑だったのです。
当然、それを作る機械工たちの負担は大きいものでした。
そして何より、バベッジの「完全主義者」な上に、「異常な癇癪持ち」と言う性格が災いするのです。
実現化の難しさ、機械工のストライキ
開発が始まってから10年経過した1833年、機械工はストライキを起こします。
それはなぜか?
機械工たちには、バベッジの説明が理解できなかったのです。
また、癇癪にうんざりしていたのも、大きな理由かもしれません。
バベッジにとって、これは大きな痛手でした。
10年間にわたり、1万7千ポンドもの大金を投じながら、まだ本体の一部しか完成していない機械の組み立てを、中断せざるを得なかったのですから。
1842年にイギリス政府は、全ての援助を打ち切り、『階差機関』の開発はストップします。
新しい発想、もしくは横道
ここでバベッジは、コンピュータ開発者が陥りがちな、落とし穴にはまります。
最初のアイデアが完成する前に、新しい思いつきに関心が移ったのです。
階差機関を開発していた1833年のバベッジは、『解析機関(アナリティカル・エンジン)』の概念を発表したのです。
現代のコンピューターに、よく似た思想を持つ装置で、「数表を作る」だけでなく、「あらゆる種類の計算を実行できる」というもの。
これは「数表中の1つの数字を使って次の計算を始め、それによって表中の次の数字を導き出す」と言う、自動計算装置でした。
「解析機関」の概念 それは重要な発想でした
「計算の途中結果を保存しておき、別の計算に用いる」
つまり「解析機関」には、「保存(ストア)」の概念が組み込まれていたのです。
そして「解析機関」には、さらに次の機能も組み込まれていました。
- 演算装置に相当する「ミル」と呼ぶ部分。
- 記憶装置と演算装置を連結する、ギヤとレバーからなる伝達機構、つまり「制御装置」
- 情報の出し入れを行う部分、すなわち「入出力装置」
コンピュータの、基本構造の出来上がりです。
そして「解析機関」は、もう1つ重要な機能を持っていました。
「条件分岐機能」を持っていたのです。
バベッジの説明では、「解析機関」は、「計算途中で条件分岐点に行き当たると、現在の値を確認する」と言うのです。
そして、「その値が、あらかじめ与えられた条件に一致した場合はこちら、しなかった場合はあちらと仕分ける」と言うのです。
「階差機関1号機」のその後
政府からの資金援助も途絶え、立ち消えとなっていた「階差機関1号機」。
バベッジの手を離れ、スウェーデンのジョージ・シュウツが後を引き継ぎます。
1834年発行の「エディンバラ・レヴュー」と言う雑誌で、「階差機関」の記事を読んだシュウツは、興味を持ちます。
1837年、スウェーデン政府から開発援助金を得て、彼は息子のエドワードと共に、計算機械の製作に取り掛かりました。
機械については素人のシュウツでしたが、懸命な努力の甲斐あって、1743年には実用に耐えるレベルまで達しました。
1853年、バベッジが考案したものよりずっと小型で、商品としても通用する「階差機関」が完成しました。
この機械は、1854年にロンドンで公開され、翌年のパリ万博で見事に金メダルに輝きました。
バベッジの晩年
バベッジの、斬新な思考に基づいた「解析機関」でしたが、あまりにも進んだ考えだったため、当時の人々には受け入れられませんでした。
それでも、自分の考えに自信のあった彼は、それを棄てることが出来ませんでした。
そして、「いつまでそんな機械にこだわっているのだ」と忠告する人々との間に、溝が出来て行ったのです。
周りの人から相手にされなくなったバベッジは、やがて重い病に倒れ、1871年10月18日、80歳を前に亡くなります。
息子に引き継がれたバベッジの思い
しかし、彼の志は、一番年下の息子ヘンリー・プレヴォスト・バベッジに引き継がれます。
ヘンリーは、父親が残した挿絵などを参考に、6台の「解析機関」の作成に成功しました。
そのうちの1台は、ハーバード大学に送られ、1台はロンドンの科学博物館に寄贈されました。
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