マウスを発明したタグ・エンゲルバート
ちなみに、パソコンって昔からこうなんですか?
前にマウスの話をしたと思うが、マウスですら画期的なものであった。
その他、画期的な技術が集まってできたものがパソコンじゃな!
今日はエンゲルバートについてもっと詳しく話をしてみるかな
コンピュータの未来像「Memex」
マウスを発明したダグラス・エンゲルバートは、1925年にアメリカのオレゴン州ポートランドで生まれました。
父親は10歳の頃に亡くなってしまいましたが、姉と弟の3人の兄弟と仲良く育ちました。
1942年、オレゴン州立大学に入学しますが、第2次世界大戦のため徴兵され、アメリカ海軍に入隊し、フィリピンでレーダー技師として働きました。
その頃出会ったのがヴァネヴァー・ブッシュの論文でした。
ヴォネヴァー・ブッシュは、アナログコンピュータの開発をし、アメリカ軍部を科学技術的に支援するアメリカ国防研究委員会(NDRC)の議長を務めていました。
ブッシュは1945年に「As We May Think」を発表し、その中で提唱した「Memex」は、エンゲルバートに大きな影響を与えました。
「Memex」には、本や記録などのデータを写真におさめ、それをマイクロフィルムで保存し、必要な時に取り出したり、追加や削除ができたりすることが書かれていました。
更にデータはスクリーンに映し出し、ペンでデータにメモ書きをして保存することもイメージしていました。
それは現在のコンピュータでは当たり前に使われている「ハイパーテキスト」や「パーソナルコンピュータ」「インターネット」などを連想させるものでした。
コンピュータとの対話は夢物語
エンゲルハートは、「Memex」を実現させることを目標として、戦争が終わるとオレゴン州立大学に復学。
卒業後はカルフォルニア大学バークレー校大学院の電気工学科に進み、1953年修士号、1955年には博士号を収得しました。
その後、大学でデジタルコンピュータ「CALDIC」の構築に参加します。
CALDICは「真空管」と「ダイオード」「磁気ドラム装置」がある小型のコンピュータでした。
この当時のコンピュータは高性能な計算機として使用され、データを入力したパンチカードを読み込ませ計算して、結果をまたパンチカードや印字出力で確認する方法がとられていました。
エンゲルバートはCRTディスプレイ端末を使用して対話するコンピュータの開発を訴えましたが、突拍子もない話としてその必要性は他の研究者には感じられず、助教授として1年務めた後大学を去りました。
次にエンゲルバートは「Memex」を実現させる研究ができるところを探し、スタンフォード研究所(SRC)に勤めるようになりました。
描画ソフト「スケッチバッド」
スタンフォード研究所では「磁気デバイス」や「電子部品の小型化」の研究をしながらエンゲルバートは10を超える特許も取りました。
そして全米合同コンピュータ会議の委員となったエンゲルバートは、1962年の分科会「人間と機械の連携」で、マサチューセッツ工科大学(MIT)の大学院生アイバン・サザランドが開発した描画ソフト「スケッチバッド」を目にすることになりました。
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「スケッチバッド」はライトペンを操作し、CRTディスプレイ上で図形を書き、それを移動したり、コピーしたりすることができたのです。
コンピュータと直接やり取りする「スケッチバッド」は、エンゲルバートを大いに驚かせ感嘆させました。
これこそ自分が目指している「Memex」であると。
グラフィカルユーザーフェイスGUI「NLS」の誕生
興奮が冷めないうちにエンゲルバートは、「Augmenting Human Intellect: A Conceptual Framework(人類の知性の増強: 概念的フレームワーク)」と題したレポートを書き上げ、ARPA(国防高等研究計画局)に提案し、予算をもらうことができました。
エンゲルバートが提案したレポートは、コンピュータの技術を向上させることが人間の知性も向上し、またコンピュータも進化していくというものでした。
新しい開発について予算の目途がつき、エンゲルバートはオーグメンテイション研究所(ARC)をスタンフォード研究所内に作り、スタッフを集め、NLS(oN-Line System)の開発に取り掛かりました。
はじめに、エンゲルバートはサザランドの「スケッチバッド」のようにCRTディスプレイ上の動きを操作するものを考えてみました。
仕組みとして、手を離しても、その場にポインタが留まるようにしたかったのです。
エンゲルバートは、積分器を使ってXY座標の停止点から移動距離を測る方法を以前学校で習ったことを思い出し、それを応用するアイデアを思いつきました。
それはマウスから
エンゲルバートのアイデアは具体的にまとめられ、ビル・イングリッシュがそれを元にして設計開発し最初のマウスができました。
最初のマウスは木箱のような形状で手首の方からコンピュータに繋ぐコードがあり、中にはX軸とY軸方向に取付けられた車輪があり、その動きで距離を測り位置をコンピュータに伝えるようになっていました。
エンゲルバートは、「Memex」の実現のため、マウスの他にも様々なものを開発していきました。
主なものとしては、
- ハイパーテキスト
- アウトライン構造
- マルチウィンドウ
これらの開発が一通り終わった後、エンゲルバートは大掛かりなデモンストレーションを行うのでした。
しかしマウスが広く広まるのは1980年代の後半で、その頃には特許は失効してしまうのだ…
マウスの生みの親なのに
「マウス」という名前もいつの間にかついた名前でもあるしな…
すべてのデモの母(The Mother of Demons)
1968年12月9日、サンフランシスコで計算機協会 (ACM)で多くの研究者を前にして、エンゲルバートのNLSのデモンストレーションが始まります。
ディスプレイと接続されたプロジェクターによる大型スクリーンにはエンゲルバートの手元が写され、「マウス」「キーボード」「5本指キーボード」の操作によりディスプレイ上で様々なプログラムが展開されいていきます。
ウィンドウが2枚、3枚と広げられ、ハイパーテキストによって別ファイルへとリンクしていくのです。
またメンローパークの研究所ともビデオ回線で繋がり、ディスプレイには相手が移り共同で作業していく様子が映し出されます。
約90分間のデモンストレーションは、驚きの連続で飽きさせることなく、終了すると万来の拍手喝采を浴びました。
このデモンストレーションは多くの研究者を驚嘆させインスピレーションを与えたのでした。
そして後に伝説のデモンストレーションとして「すべてのデモの母」と呼ばれるようになります。
ARPANETのネットワーク実験
エデモンストレーションでビデオ会議を成功させたエンゲルバートは、その後ARPANETのネットワークの実験に参加します。
1969年10月29日、エンゲルバートの研究所にARPANETで繋いだカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)のレナード・クラインの研究所から初めてのメッセージが届きました。
「login」と送られるはずだったメッセージは途中でクラッシュしてしまいましたが、2度目は無事に成功。
ネットワークの実験に成功したARPANETは、カルフォルニア大学サンタバーバラ校(UCSB)とユタ大学にも繋がり、更に政府機関や教育機関、医療関係と広がっていきました。
そして「Alto」を見たスティーブ・ジョブズやビル・ゲイツが新しいパソコンを作っていったわけじゃ
挫折と孤独の日々
NLSのデモンストレーションは成功しましたが、NLSはまだ完全ではありませんでした。
多くのプログラムを使うには階層構造の熟知や複雑なコードを覚える必要があり、実用化するには多くの問題を抱えていました。
エンゲルバートは電子メールの開発にも取り組みますが評価は得られず、Bolt Beranek and Newman(BBN)のレイ・トムリンソンが開発した電子メールがARPANETで広く使用されました。
そして時代は1台の大型コンピュータを共有して使うタイムシェアする時代から、個人でコンピュータを使うパーソナルコンピュータの時代に代わろうとしていました。
エンゲルバートは、日々、情報を共有して仕事をする大切さを感じていました。
そのため、パーソナルコンピュータでは共有すべき情報がバラバラになってしまうと危惧します。
しかし何人かの研究者たちはパーソナルコンピュータに希望を見出し、エンゲルバートから去り、パロアルト研究所に移っていきました。
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さらには、ベトナム戦争が終戦し、NASAのアポロ計画も終結。
エンゲルバートの研究開発費が大きく削られてしまいました。
スタンフォード研究所は、成果が上がらないオーグメンテイション研究所をとうとうTymshare社へ売り渡し、そのTymshare社もマグドネル・ダグラス社に買収されてしまいました。
そのことにより、エンゲルバートの環境は大きく変わることとなりました。
エンゲルバートはその間も様々なアイデアを提案しますが、受け入れられることなく失望の日々を送るのでした。
1986年、ついにエンゲルバートはマグドネル・ダグラス社を去りました。
エンゲルバートのその後
まだまだ研究したい気持ちがあったエンゲルバートは、彼の娘とともにBootstrap Instituteを1988年設立しました。
Bootstrap Instituteでは、エンゲルバートが信念としている「集団的知性」をもとに「Open Hyper-Document Systems(OHS)」を開発し、米国科学財団から資金を受け、HyperScopeプロジェクトをスタートさせました。
他にもマネジメントセミナーやコンサルティングなども行い、自分の経験や「集団的知性」について語ります。
1990年代になると、アップルがMacintosh、マイクロソフトがWindows、他にも各社がパーソナルコンピュータを発売していきます。
それらのパーソナルコンピュータには、エンゲルバートのNLSのアイデアが詰まっていました。
このことで再評価されたエンゲルバートは数々の賞を受けるようになります。
1995年12月 - 第4回 WWW 会議での表彰( 後のYuri Rubinsky Memorial Award )
1997年 - レメルソンMIT賞 1997年 - チューリング賞 1998年 - ACM SIGCHI Special Recognition Award 1999年:フォン・ノイマンメダル(IEEE) 1999年 - ベンジャミン・フランクリン・メダル 2000年 - アメリカ国家技術賞 2001年 - ラブレスメダル(英国コンピュータ学会) 2002年 - ACM SIGCHI アカデミー会員 2005年 - ノーバート・ウィナー賞 2011年 - IEEE Intelligent Systems の人工知能の殿堂入り |
私たちの知性を刺激し対話するコンピュータはNLSが源流となり、いくつかの支流に分かれて今も進化は続いていきます。
エンゲルバートは変わりゆくコンピュータが人間の知性を向上させることを願いながら、2013年7月に安らかな眠りにつきました。
でもみんなが「マウス」を使っているのはうれしかったでしょうね
ん?